寛政八年(一七九六)と翌年にかけて、イギリス船が内浦湾へ碇泊した事件は、幕府をして蝦夷地経営を積極的に押し進める契機を与えた。
寛政十年、幕府は、異国船渡来が予想されるという理由から、目付渡辺久蔵胤、大河内善兵衛政寿に蝦夷地巡見を命じた。勘定吟味役三橋藤右衛門成方も巡見を命じられ、同年四月、江戸を出発した。一行は、総勢一八〇余人に達し、一行中には、この年以来蝦夷地のことに深く関わりを持つ支配勘定近藤重蔵もいた。
一行は、東西蝦夷地二手に分かれて調査を行った。西蝦夷地調査隊は、三橋藤右衛門等上下二七人であった。同年五月二十五日に福山を出立し、それより乙部、熊石、セタナイ、スッツ、イソヤ、フルウ、シャコタンを経て、ここより船でオタルナイへ行き、イシカリまで陸路を歩行している。一行がイシカリに到着したのが六月二十五日であるから、福山出立からちょうど一カ月である。イシカリの印象については、三橋藤右衛門の部下武藤勘蔵が『蝦夷日記』に次のように記している。
このように、イシカリ川口には諸国の船がたくさん輻湊し、大層繁盛していたらしく、「カノズ」(雁の字=売女)の勤めもするアイヌ女性までがいるありさまだった。しかし、一行はここで松前藩の吏員に奥地に入ることを妨害され、一日足留めされている。
やがて一行は、七月七日ソウヤに到着した。滞在すること一週間で、御用向を終えて帰路についた。帰路は、イシカリ川をエベツブトまで遡ってシコツ川に出、それよりユウフツへ抜けるシコツ越えをした。これについては、第七章で詳述することとする。
結局幕府は、寛政十年の蝦夷地調査により、蝦夷地経営を松前藩に任せておくわけにいかないという結論にいたり、まず当面一番大切な東蝦夷地の七カ年仮直轄を決定した。