このような、秋味漁の網の使用については、同行した近藤重蔵も、見逃してはいない。『蝦夷地御用留』には、「此節秋味漁事最中ニて、川中川口とも数ケ所、網数所々ニ相立、夷人千余人も相集り、川中へは廻船拾五六艘も入居」(近藤重蔵蝦夷地関係史料 二)とあり、また、同じ近藤の『総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』(以下『書付』と略記)にも「イシカリ鮭漁ノ仕法其外場所々々ト違ヒ夷人共運上屋ノ手ヲ離レ冬中夷人手細工ニ仕候網ヲ以各組合ヲ立」てとあるのがそれである。こうして、アイヌ自ら作った網を川中や川口に数統立て、アイヌが一〇〇〇人以上も集まって漁をし、川中にまで入った廻船一五、六艘と直接交易を行った。荷物として積み出した後は、旧慣に従ってアイヌの飯料用として自由に秋味をとることが許されていたようである。
ところで、この網がイシカリ場所で使用されるにいたった経緯を伝えるような伝承が、イザリ・ムイザリ事件の顚末を伝える『土人由来記』に、次のように記されている。
其以前鮭鱒引網等は相開ケ不申由。元来右引網ノ初りは元ヒホクより相初り、尤もクゴ糸ニて拵候。小網引立候処ケ成り之漁事在之、其近辺ニて右ノ網拵方相習ひ候て網仕立、夫よりイシカリ川口も当所網一統在し。右大川ニて引立候所相応ニ漁事在之至て弁利宜敷候故、又ユウフツ領ニても追々相仕立イシカリ大川へ持下り漁事いたし候。
あるいは、この伝承のごとく「ヒホク」(現新冠)をはじめとして東蝦夷地太平洋岸で使用されていた網が、すでに蝦夷地直轄以前からアイヌによって、また請負人によってイシカリ場所へ伝えられたことは充分考えられる。ここに記されているようなクゴ糸、あるいは、榀(しな)の木の皮で編んで作った榀網と呼ばれるものだったらしい。文化十四年に、イシカリに疱瘡が流行し、このため秋味漁ができなくなった時、いつもの年だと、八〇〇人ほどの男女が一一〇余統の網を使って秋味漁をするのだが、この年は二三統の漁しか行われなかった(蝦夷地御用見合書面類)とあることから、いかに秋味漁での網の使用が多かったかが知られよう。文政二年からは、糸網も使用され始めたようである(武四郎廻浦日記)。
網の導入により、秋味漁にたずさわるアイヌの労働形態もおのずと変化したことはいうまでもない。それは、イシカリ川筋居住のアイヌのみならず、イシカリ川上流域や支流域居住のアイヌの秋味場への労働力の集約的な使われ方となってあらわれ、あるいはイシカリ場所外のアイヌの集約的労働をも期待するにいたった。
一方、鮭の産出量においてはどうであろう。第四章においても触れたように、天明五年(一七八五)段階では、一万二〇〇〇石の産出があった(西蝦夷地場所地名産物方程控)。こういった状態は、文化四年(一八〇七)より七、八年前までというので、寛政末年まで継続していたようである。ところが、文化二年では、「三、四十年以前には十二はひ(一万二〇〇〇石)程有しが、近年不猟となり、五、六はひ許」(東海参譚)りとなり、同四年では、六五〇〇石(西蝦夷地日記)の産額というありさまであった。そして、疱瘡の流行によって自然産額が減少した文政元年(一八一八)では、黒毛(鮭の上物)を含め二〇〇〇石ほどで、その後も例年の三分の一くらいまでしか回復しそうもない(蝦夷地御用見合書面類)といわれる状態が続いている。また、別の記録には、文化十二~文政四年(一八一五~二一)の間の年平均産出額は、四八〇〇石であったと記したものもある(村山家資料)。