かたや千歳アイヌのイシカリ川筋での漁、かたやイシカリ川筋のアイヌの千歳川筋での漁といった相互の入会権は、どのようにして成立していったのだろうか。それでは具体的に、イシカリ川筋のアイヌが千歳川筋に有したそれは、どのような経緯で成立したのだろうか。上ツイシカリの惣乙名シレマウカ、下ツイシカリの乙名レタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同カシュウシの場合をそれぞれ追ってみよう。
上ツイシカリの惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。なぜ上ツイシカリの惣乙名になったかは不明である。伝承によれば、三代前の祖父の代に、下地すなわち東蝦夷地から大勢のアイヌがムイザリ川地域に攻めてきたことがあった。その際、ムイザリアイヌの財宝を償いとして差し出したが、それでは足りず上ツイシカリのシレマウカの祖父に頼み込み、財宝を出してその場をようやく収めることができた。この際、その返礼としてムイザリアイヌ一同から、ムイザリのウライ(鮭を捕獲する簗(やな)のことで、ウライ、ウラエ、ウラヰとも書くが、ここではウライとした)を「勝手次第」選ぶことが許され、それ以来ムイザリのウライを持つ権利を得た。その権利は世襲制で、代々シレマウカの家に伝えられてきたとある。三代前というと、一八世紀のはじめ頃、ちょうど松前藩の手がこの方面に伸びてきた頃である。それにともなう部族間の闘争も考えられよう。
同じイシカリ場所のうち下ツイシカリの乙名レタリカウクの場合も、やはり父親の代からイザリの干鮭場への出漁権を所有していた。レタリカウクは、父方の倅でヌカンランケというアイヌが、イザリの乙名と親戚関係にあったことから、イザリ地方へ干鮭(アイヌの越年食糧)取りに行くことを誘われた。そこでウタレ(従僕)のホロソイ、キキメンカ、シャシカリ、ゴボシャ、クヒルらと一緒に毎年イザリ、オルルウンというところへ干鮭取りに行っていたらしい。
上ユウバリのアンラマシテの場合も、ムイザリ川流域が、鮭が豊富なことから、数年以前よりムイザリの干鮭場に出稼していた。この場合、ユウバリ川筋が一時鮭が不漁となり、家業が成り立たなくなったので、ムイザリ乙名のヌカンランケに財宝を差し出して、ムイザリ川での干鮭漁業権を譲り受けたという。
いま一人、同じ上ユウバリのカシュウシの場合は、前述のシレマウカの母の妹の倅ということもあって、シレマウカのムイザリ川のウライ一カ所を譲り受けたという。
以上が、イシカリ川筋のアイヌが千歳川上流、すなわちイザリ川あるいはムイザリ川での漁業権を持つにいたった経緯である。シレマウカのように、功労に対する恩賞として、またヌカンランケやカシュウシのように親戚関係を頼って、あるいはアンラマシテのように不漁を原因に償いを出しての漁業権の獲得であった。これらは、すべて千歳川筋アイヌとの入会漁業であった。