このような東蝦夷地の仮直轄は、そこの直接生産者であるアイヌの意志とは無関係に働いた。まず寛政十二年、ユウフツ詰合高橋次太夫と河西祐助両人による「御領私領入合漁業いたし儀は不被罷成」(由来記)といった、入会禁止の命令へと発展した。この命令により、シレマウカはじめイシカリアイヌの漁場は強制的に没収された。シレマウカの場合、ウライ三カ所(ムイザリ川のほかイザリ川に二カ所)のうち、ムイザリのウライ一カ所が没収された。没収に際し、ユウフツ詰高橋、河西の両人は、千歳川支配人重次郎を通して、「尤以後東西一統御用地ニも被仰出候ハヽ其節は、元成ニ可申付候儀ニ御座候」(由来記)と通達し、西蝦夷地もやがて公領になるであろうから、その時には元通りになるかもしれないと期待を持たせた。
さらに、文化三年(一八〇六)、西蝦夷地直轄を決定する幕府目付遠山金四郎と勘定吟味役村垣左太夫の西蝦夷地調査の際、ユウフツから西蝦夷地イシカリへ抜けるいわゆるシコツ越え道を整備することになり、イザリブトに通行屋を建てることになった。このため、通行屋の番人にリキヤとカシュヒタの二人の千歳アイヌを配置することとし、その飯料として、シレマウカのイザリブトのウライ二カ所のうち一カ所を没収してあてることとした。
こうして、シレマウカは、三カ所のウライのうち一つを残して全部没収され、元通りになるかもしれないといった期待はかなえられるどころかみごとに裏切られた。上ツイシカリ通詞に、「ウラエ共弐ツ御取揚ニ相成候ては、末々渇命ニも及可申」(由来記)と訴えたが、幕府の命にどうすることもできなかった。
一方、シレマウカのウライ以外の、下ツイシカリのレタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同じくカシュウシたちも同様であった。レタリカウクは、直轄以後「干鮭取揚候事不相成趣被仰付」(由来記)、アンラマシテ以下も同様にウライを没収された。
これにより、イシカリアイヌが所有していたイザリ・ムイザリ川流域のウライ設定権や出漁権は、シレマウカの一つのウライを除いてすべて出漁禁止となり、入会漁業依存のイシカリアイヌにとって飯料確保さえ困難にした。