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諸施設

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 イシカリ場所には、どのような施設があったのだろうか。松浦武四郎の『再航蝦夷日誌』からみてみよう。
 ①勤番所 運上屋の前方にある。玄関付きで長屋がずいぶん大きい。アイヌ二人付添。
 ②運上屋 南向。はなはだ大きい。前に柵を結って柳、桃、梅、李等多く植えている。
 ③魚見台 高さおよそ四丈くらい。江戸の火の見櫓のよう。てっぺんに小屋を設け、浜辺を眺望す。
 ④蔵 勤番所の表にあり、弁天社の道の両脇に二〇余戸ある。
 ⑤塩切長屋 川岸に建ち、秋味漁の時この蔵で切囲をしたり、荷物にする。長さ(幅)七、八間、長さ一五間くらい。一カ所は六、七間に一〇間くらい。長さ八、九間のもの六、七カ所もある。ここで水揚げする。
 ⑥弁天社 運上屋の裏にある。石鳥居、石灯籠があり、石の柵が美しい。
 ⑦アイヌの住居 運上屋辺にわずかに六、七戸。茅葺の家で美しく暮らす。中川筋のアイヌが中心。

 以上が、弘化三年に松浦武四郎が見たイシカリ運上屋付近の諸施設である。これに対し、それより一〇年後の安政二年(一八五五)、阿部屋が書き上げた諸施設は表6のようであった。これは、阿部屋の管轄する地域内の諸施設を示したものであるが、イシカリ川河口の元小家のあるところからツイシカリフト付近にかけて漁業のための蔵、小家等が集中していることがわかる。それとは対照的に、現在の札幌市域を含めた「ハツシャフ」、「サツホロ」、「ヲソウシ」、「コトニ」、「ユウハリ」には、茅小家の番家がそれぞれ一戸ずつあるのみで、秋から冬にかけて番人が「飯料取締」(アイヌが過不足なく飯料を取るよう監督する仕事と冬期間、飯料の足らないアイヌのために越年飯料を番屋に備えておく仕事)と「軽物出増世話方」を名目に一人ずつ詰めていたようである。イシカリ川上流の「上川チユクベツフト」にも同様の番家が一戸と板蔵が二戸あるのみである。このことは、この時期の最終段階においては、漁場労働がイシカリ川のツイシカリフトより下流域に集中し、このため上流・中流域のアイヌは下流域に設けられた小家に宿泊させられる結果となったようである。そして、後述するようにアイヌは飯料とり等に故郷に帰るのみで、秋末には再び鯡漁(にしんりょう)のにとられ、小家での生活が長くなった。
表-6 安政2年4月改イシカリ場所諸施設
施設場所施設名
イシカリ
元小家
神社4棟、御詰所、御制札、御焰硝蔵、元小家、
秋味帳場、板蔵23棟、茅蔵20棟、蝦夷雇小屋5棟
(計52棟)
(ユウフツ出稼)居小家1、板蔵8、茅蔵3、蝦夷小家1(計13棟)
フンヘムイ小休所
シュフ
(ユウフツ出稼)居小家1、茅蔵4、蝦夷小家1(計6棟)
ヒトエ御昼所1、秋味居小家1、茅蔵2、蝦夷小家1(計5棟)
(ユウフツ出稼)居小家1、板蔵1、茅蔵2、蝦夷小家1(計5棟)
ツイシカリフト秋味番家1、板蔵5、茅蔵2、蝦夷小家1(計9棟)
(ユウフツ出稼)居小家1、板蔵1、茅蔵4(計6棟)
シママフブト御昼所1
ハツシャフ茅小家番家5(計5棟)
サツホロ
ヲソウシ
コトニ
ユウハリ
上川チユクヘツフト番家1、板蔵2(計3棟)
『安政二年乙卯二月御詰所元小家番家神社蔵々員数幷間数書幷ユウフツ出稼所居小家員数間数書』(村山家資料 新札幌市史 第六巻)より作成。