最後の調査を『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』によって見ると、今回はウスより厳冬の中を鉄橇(てつかんじき)を用いて現在の中山峠付近を越え、豊平川上流にたどりつき、同川に沿って温泉(定山渓)、止宿所のあるマコマナイを通過して二月十九日にトイヒラに至った。
〈トイヒラ〉秋味漁小屋一軒あり。ここは去年新道(サッポロ越)が切り開かれたところであるが、雪中にて道路は不明である。三、四丁下ると夷人小屋三、四軒あり。これより下流ツイシカリ川(旧サッポロ川)川筋を聞くに、川まではおよそ七、八里、直線では二里ばかりでツイシカリ番屋に至ると。二〇丁余下るとツイシカリメムという水溜りがあり、少し行くとツキシャフプト、ついでポロアシュシベツプトがありこの上を新道は渡るとかいう。この対岸にナイボがあり、その上は沼の如き谷地で、一方にハッサムに通じる口がありトウバロという。この辺は往時は人家多くあったというが今はない。さらに本川を下ってノッポロプト、ホロナイ、オサフシを経てツイシカリプトに達すという。
トイヒラよりサックコトニに至る。この川筋はすべて下サッポロ、一名フシコサッポロへ落ちる由。ついでポロコトニ、ヨウコシベツなる川を経てハッサムに至る。
〈ハッサム〉川幅七、八間で小舟で渡る。川端に高札を立つ。当地の在住やオタルナイ辺への出稼の者たちの鮭漁を禁ずるものである。昔は夷人の家が多かったというが、今は一軒のみ。フシコハッサムには在住の家が立ち並び、武四郎はアイヌのアイクシテの家に止宿している。
翌二十日、在住宅五、六軒あるチライオツベツの辺を過ぎ、サンタラッケに来るや、オタルナイ領より薪、材木伐り出しの雪車を引くため道もよく、賑わしき様である。それより新道をたどればハッサム・ゼニバコ間三里半ばかりのところを、雪上を一直線に進んで一里ほど短縮してゼニバコに着き、イシカリに入る。
その後武四郎は上川・十勝・釧路・根室・北見・宗谷・天塩を巡って、六月に再度イシカリにもどり、ついで六月十七日イシカリよりゼニバコに来たって止宿。昨年まで一宇の小屋であったが、今年は座敷八坪ほど完成し、りっぱな通行屋に改められている。十八日ゼニバコを発してサッポロ越新道をたどって検分する。ホシオキには中島辰三郎、中島彦左衛門、中川金之助、葛山幸三郎の在住四軒あり、大根・蕎麦・隠元・ささげ等を栽培する。ついでオタルナイ川の支流ポンタツナイも同じく在住の給与地である。チライオツに追分があり、右は本道、左はハッサムの夷家村に通ず。左を行くと大屋文右衛門、大竹慎十郎、永田休蔵、弓気多内匠の在住四軒並び、ついでポンハッサムにも山田常蔵、秋場熊蔵の在住二軒あり、少し上に夷人小屋五軒。この辺は大根・蕎麦畑になり、昨年の様とは大いに変化している。本道にもどるや、この辺に炭焼小屋が多くできている。ハッサム川に粗朶橋が架設されている。コトニ川幅五、六間、これがフシコサッポロといい、また下サッポロともいう川筋のことで、昔は人家があったというが、今はなし。シャツクコトニを経て、上サッポロの夷人村のあるポンヘツバロ、さらにオソウシからトイヒラに至る。川を渡ろうとしたが舟は向岸にあり。案内のタケアニ、馬の鞍を下ろし、裸馬にて川を横切り丸木舟を持ち来る。昨春堀奉行巡回の折休息された茅小屋二つあり。ここに止宿。
六月十九日トイヒラを出発し、ツイシカリ川に沿いツキシャプ、モツキシャプ、アシュウシベツを経て、ついでシュママップ川の支流クウナイ(サルウツナイ)に移り、ワウツを経てシュママツプトに至る。トイヒラよりおよそ五里。この川中を境にイシカリ・ユウフツ両領を分ける。堀奉行巡回の際建てた小休所二棟あり。かくしてイサリ、千歳を経過してユウフツに抜ける。
以上のように、松浦武四郎は四回の踏査の過程で六度にわたり、イシカリから特にサッポロの地域を検分し、また記録を残し、当時においては当地方を最も熟知した一人であったといえよう。