安政五年、改革による新体制のもとで、基幹産業の漁業をどう発展させていくべきか検討がつづけられた。漁業は従前の方法を受け継ぎ、直接改革しない方針をとったが、場所請負制を廃止し直捌制を導入するからには、新体制にそった変更なくして、イシカリ漁業の発展は望めず、イシカリ改革の成否にかかわる問題だったのである。
そこで、まずイシカリ役所の下部組織としてイシカリ改役所(あらためやくしょ)を設置した。これは万延元年(一八六〇)六月、漁場改会所と名を変えたように、場所内の漁業の監督、指導、経営の中枢機関としての役割を果たすことになる。漁業が生産基盤のイシカリでは、ほとんどの住人がこれにかかわりを持つから、アイヌの「撫育」を含め広く民生にも業務がおよび、農作奨励など漁業以外の新産業育成にもたずさわった。
その中で重要な職務は、イシカリで水揚げされる鮭の量を厳しく掌握し、役鮭(税)を徴収し、これを売り払ってイシカリ役所の収益とすることにあった。これの運営には多額な費用を要し、漁場取締役の金策の苦労がうかがえるし(ヨイチ竹屋 御場所見廻り日記、安政六年六月晦日条)、御用達に借財を負う結果になった(石狩町史 上 二八四頁)。もう一つ改役所の重要な仕事は、改革前に自分網と呼ばれたアイヌの引場を受け継ぎ、〝御手料場〟として経営すること。細部は第六章によるが、蝦夷地に官営漁場が成立した意義は大きく、ここで当然仕込みが必要となり、アイヌの「撫育」策と切りはなして改役所の運営はできなかったのである。
この職員は本州から来たばかりの武士では勤まりかねる。荒井金助はその人選と運営におおいに腐心し、請負場所経営のしくみを取り入れようと決意、場所支配人の経験者を雇足軽として採用することにした。その結果、アツタの(横山)喜蔵とフルビラの(大西)文左衛門の両名が改役所の漁場取締役となり、その下に帳役、土人世話役(通詞)、蔵方、土人廻し方、台所賄方等を置き、イシカリの(玉川)慶吉(市史第六巻史料編一 五六頁の藤吉は誤り)はアイヌ語通詞となる。ほかに秋の鮭漁期は多くの勤番人が必要となるから、在住などを臨時に雇い入れ、金銭と鮭で報酬を払うことになった。
施設として、改役所一、番家一五、蔵三、貫目改所一を必要とした。すべてを一度に建築する金がないので、漁事の収益をみながら普請していくこととし、急用分は阿部屋の既存の建物を転用し、この購入費用をオタルナイの(山田)吉兵衛から一時借用したと伝えられる。こうして安政五年から直捌漁業がスタートしたのである。