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移民の編成

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 庚午、辛未の移民に対する米、金の扶助給与を、三年十月から一カ年分記したのが『仕上ケ御勘定帳』(道文三二二)である。この史料により初期移民の編成、人員などをうかがうことができるが、庚午移民は以下のようになっていた(三年十月現在)。
 一 庚午一ノ村 ①(坂野)元右衛門組 一二三人
 二 庚午二ノ村 ②(今野)徳治組    四四人
         ③(一戸)直吉組    五一人
 三 庚午三ノ村 ④(日田)豊三郎    五二人
         ⑤(本間)治作組    四五人
         ⑥(石野)平八郎組   二〇人
 四 庚午四ノ村(札幌新村) ⑦(岡田)忠兵衛組 五八人
              ⑧(原)伝左衛門組 三一人

 ここには八組で四二四人が計上されており、『開拓使事業報告』の三九四人より多い。各組は組頭に統率と支配を受け、組頭の下には小頭も一人いた。山形県移民には組頭小頭が各五人、新潟県移民には組頭三人、小頭二人となっており(市史 第六巻六五七頁)、①~⑤が山形県移民、⑥~⑧が新潟県移民である。⑥は小人数なので小頭はいなかったとみられる。①が大人数なのは、元右衛門の統率力に期待したものであったろうが、元右衛門は十月二日に退任し(共進会書類)、後任に荒木大二が任ぜられ大二組となった。
 ⑥は以下のような複雑な変遷をたどる。
庚午三ノ村平八郎組(明治三年十月~四年一月)→庚午三ノ村人員(明治四年二、三月)→庚午三ノ村(円山村)→平八郎組(明治四年四、五月)→円山村人員(明治四年六、七月)→発寒村人員(明治四年七~十月)

 これによると平八郎組は発寒に入植したが、行政村の管轄では庚午三ノ村(円山村)とされた。しかし地理的に遠いので一旦組を再置したり併合を繰返した末、四年七月に発寒村に編入したということになる。
 平八郎組のことは『細大日記』に、「発寒平八郎組塩噌料、金四両三分相渡候事」(市史 第六巻九九四頁)とみえ、実際に組が存在していたことがわかる。組は間もなく廃止になったと思われるが、平八郎は『十文字龍助関係文書』の「日記」(市史 第六巻)によると、五年五月二十四日「開墾地移住民平八郎に勝手被致候」と発寒村の福玉仙吉の訴えが記されている。
 福玉仙吉は明治元年にベツカウス(現西野)に入地した人物で、当時杣工として伐木を営んでいた。七年に札幌神社に桜の苗木を寄付したことで名高い。平八郎は土地や伐木のことで、仙吉とトラブルを起こしたものと思われる。このことで、平八郎発寒村といっても西野付近であることがわかる。『札幌村外十一ケ村検地野帳』(明治六年、市史 第六巻)、『地価創定請書』(十二年、市史 第七巻)では上手稲村四番地に「石野平八(郎)」とみえ、後書では三年六月に地所割渡し、十月に家屋営構とみえる。さらに吉沢多作、池田松五郎、和栗甚太郎などが平八郎組であったこともわかる。
 ⑦は明治三年の「御扶持被下高、御扶持請取高共調書上」(札幌村郷土記念館蔵)では、五月二十日に到着し人数は五九人とされ、組頭岡田忠兵衛小頭は佐藤金右衛門であった。