ビューア該当ページ

移住までの経過

108 ~ 111 / 1047ページ
 開拓使では片倉家の家臣を貫属に編入した時点で、すでに札幌への移住が決定をみていたようである。田村顕允が四年二月に上京し薄井龍之権監事に面会した折の談話として、「今般片倉小十郎家臣共六百人、旧主ノ管轄ヲ離レ帰農札幌エ移住仕度ニ付」(伊達邦成北海道支配所御割渡請願顚末)と、「札幌エ移住」が伝えられている。田村顕允もこの時伊達邦成家中の貫属編入を説諭され、間もなく貫属編入に応じることになる(『伊達町史』所収の田村顕允遺稿に薄井龍之との会見が詳しい)。
 札幌への移住となったのは、この四年には札幌本府の建設にともない、周辺村落の形成が大がかりに企図されており、その一環とされたものである。また、同年には札幌へ東京府貫属一二〇軒五〇〇人余を移住させる計画もあったが(市史 第七巻一〇〇頁)、片倉家臣の貫属編入及び札幌移住はこれにかえて充当されたとみられる。東京府貫属は「土着兵士」(開拓使公文録 道文五七一二)の役割をもち、屯田兵制度の先蹤となるものであった。
 開拓使貫属となり、いよいよ札幌への移住が決まり、三月二十八日に佐藤孝郷・三木勉角田県庁に出頭し、孝郷が貫属取締に任ぜられ、旅費の支給、入植地での家屋建設、農具給与、三カ年間の食料扶助などのことが言い渡され、さらに「跋渉組合」のことが指示された(奥羽盛衰見聞誌)。それによると組合の組織は、執事(貫属取締)に佐藤孝郷、添役に三木勉・管野定武・橋本韜太郎、その他会計司・監察・書記諸始末係・算生・医師が決められていた。組合は「一致一和互ニ親睦ヲ本トシ海陸共ニ助合、一己自儘之振舞無之様心掛可申事」(同前)とされている。
 出発は当初四月と見込まれていた。組合への指示には、「出起日限之義未タ御達無之候得共、来ル廿日限リ荷物并支度相整、御差図次第速ニ出発之心得可為候事」(同前)とされ、四月二十日までに出発準備を整えるようにいわれていた。しかし、開拓使からの廻船が来ないために遷延をかさねた。ようやく廻船がさし向けられたのは九月で、その間いたずらに日数を費したので、一行はますます窮乏を増すことになった。廻船の遅延は、貫属の編入と移住につき開拓使内部でもトラブルが発生したためともみられる。
 角田県から開拓使東京出張所宛に出された廻船に関する六月十日付の問いあわせには、一行の窮乏の様子が詳細に報告されている。それによると、「窮迫之者共聊売却料ヲ以日用之入費ニ宛、漸々生活罷在候処、昨今ニ至愈饑餓ニ迫候者百十六名」(市史 第七巻二〇三頁)とされるなど、「不忍見聞」の状態が続けられていた。その他、居住していた「拝借居家」の売却が角田県に禁じられ、「売却之代金ヲ以家族引立方、諸支度之入費ニ相充」(奥羽盛衰見聞誌)てることもかなわず、また白石から乗船地の寒風沢までの旅費が、全体で一〇〇〇金(両)と見積られており、その手配のめどもついていなかった(これはのちに角田県で負担した)。
 一行が白石を出立するまでの角田県開拓使とのかけあいについては、『市史』第七巻(二〇三頁以下)に諸資料を収載しているが、咸臨丸の廻船が決定したのは、ようやく八月になってからである。その後、庚午丸もあわせて廻船することになった。二船となったのは、一船のみで収容できないためである。咸臨丸は江戸幕府が安政四年(一八五七)に、オランダから購入した蒸気帆船で、万延元年(一八六〇)に遣米使節をのせ太平洋を横断したことで名高い。約八〇〇トンとされ、二年九月から開拓使の付属船となっていた。庚午丸は三年六月に開拓使が購入した汽船で六四一トンあった(開拓使事業報告 第四編)。

写真-16 咸臨丸 長崎オランダ村にて平成2年復元(長崎オランダ村提供)

 一行六〇四人は二次に分かれ白石を出立し、寒風沢へ向かった。第一陣三九八人はさらに三班に分かれ、九月五、六、七日にたつ。第一陣は咸臨丸に乗船し、十二日に函館にむけ出港した。第二陣二〇六人(人数は『白石村移住以来保存ノ書類』による)は十九日に出立し、二十一日に庚午丸に乗り組み出港した。それ以降の経過は、佐藤孝郷の報告に詳しい(市史 第七巻二一〇頁)が、第一陣が思わぬ災難に遭遇した。十七日に函館に着港し、二十日に小樽に向け解纜(かいらん)したが、出港間もなく上磯郡泉沢村(現木古内町)沖で暗礁に乗り上げ遭難したのである。これが、幕末史に数々の栄光をになった咸臨丸の最後の航海となった。幸い一命も失うことなく、一部が水湿(ぬ)れになったが荷物もすべて陸揚げすることができた。第一陣は再び函館に戻り、第二陣と共に庚午丸で十月五日に小樽に向け出港し、その後、小樽・銭函を経て、十月九日に三〇〇人、十日に二七五人が石狩に着いた。多人数を収容できる施設が札幌にないために、一時的に石狩に入ったもので、陣屋や漁場の建物に宿泊を重ねることになる。なお一行のうち一七人は函館から陸路で石狩に向かい、その中で一二人が十月十八日に到着している。
 一行の到着後、開拓使では入地選定の検分を開始する。十月八日に荒井直是使掌定山渓まで出張するなど、これ以降、役人たちが入地選定の調査にまわっている様子が『細大日記』(市史 第六巻)でうかがわれる。
 当時、札幌本庁での最高責任者は判官の岩村通俊であったが、岩村は二十五日に石狩で一行に会っている。その時、「貫属五名ヲ呼ヒ説諭」(公務摘要日誌 東京都岩村家蔵)をおこなっている。二十六日は三木勉、二十八日に佐藤孝郷が出札し、二十九日に再び岩村に面会したが(細大日記)、その折の事として孝郷は以下の岩村の発言を伝えている(北海道札幌郡白石村外二村移住開拓紀要)。
卿等貫属六百人ノ事ハ、当初本庁ノ管知セザル所ナリ。然レドモ之ヲ以テ敢テ踈斥スルニ非ズ。蓋シ角田県庁ノ依頼ニ基キ、開拓監事薄井龍之ガ之ヲ専断シ、政府ニ上申セシニ依リテ成タルモノナリ。

 岩村は一行の移住につき、薄井龍之の「専断」と述べている。このあたりに、廻船の手配が引き延ばされていた理由がありそうである。また、すでに冬季になったので、来春入植すべきことを進言したようだが、孝郷は「厄介視」を嫌い、早期の入植を決心したという。『公務摘要日誌』の「説諭」とはこのことであろう。