佐藤孝郷は就任の際、はじめは胆振通一七番地の取扱所は裏通であるため、冬の積雪のころは利用者に不便であるとして、自己の所有地である渡島通四四番地(南一西四)に開局した。しかし渡島通四四番地は創成川以東からは遠すぎること、渡辺仙輔以来取扱人が交代する度に取扱所が変更されるのは利用者に不便であること、さらに佐野の援助のためなどから、佐野平十郎が取扱所にしていた胆振通一七番地を買い取り、洋風に模様替えをして取扱所とした。これは自分在任中の移転のないようにするためでもあった。
また開拓使時代末期から札幌より奥地への入植が盛んに進行したこともあり、十四、五年ころになると毎月二万通の取扱量になり、郵便業務は多忙となった。そのため集配人の増員をはじめ郵便業務の整備を始めた。
十五年八月辞任間際の佐藤孝郷は、駅逓局監察係下川とはかり「郵便物集配規程」を作成した。その中から配達についてみると、市内を四区に分けて四人で担当し、毎日二回の配達をすることにした。その四区とは、第一区は県庁大通以北の西二丁目以西、第二区は南一~七条西二丁目以西、第三区は南一~六条西一丁目以東と豊平村、第四区は北一条以北西一丁目以東と篠路通である。市外配達区は三区に分けて二人で担当した。第一区は琴似・発寒・下手稲・上手稲・円山・山鼻村、第二区は平岸・月寒・白石・上白石村、第三区は雁来・苗穂・札幌村で、第一区は毎日一回、第二、三区は隔日一回の配達である。
さらに佐藤安親は、十五年九月に市中の切手売下所である南一条西二丁目の新田由平を六等取扱人にして、そこを郵便取扱所にしたい旨上請をした。これは十二月許可され、無集配分局設置が決まった。さらに十六年には書記役を函館郵便局に派遣して郵便事務の調査をさせたり、局舎の修築などを行った。
しかし佐藤安親は、十六年六月書記役の汚職により引責辞職し、代わりに新田由平が任命された。十七年札幌郵便局は南一条西二丁目にあるので、交代と同時に局舎も移転したものと考えられる(札幌県治類典 道文七四一七、八〇四六、八〇四八)。