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下手稲村の成立

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 手稲村は片倉家旧臣の開拓使貫属が入植し、五年二月に発寒村を割き設置された。村内のサンタロベツ(三樽別、後の軽川)と呼ばれたいまの手稲本町付近は、四年に通行屋(取扱人吉田新兵衛)がおかれたように銭函・札幌間、あるいは銭函・石狩間の交通の要衝にあたっており、「旅人宿、飲食店、馬夫、樵夫、炭焼等ヲ業ト為ス者」(開拓使事業報告 第二編)が六年から増えてきた。事実、『地価創定請書』には、この六年を含めた六年以前の移住者は二五戸にも及んでいる。官募移民をともなわない、札幌周辺では珍しく自然発生的に一集落が形成されてきたのである。そこで手稲村を二つに割き、片倉家旧臣の地を上手稲村とし、サンタロベツの方は下手稲村として同村が誕生した。
 ただし下手稲村の設置の年月は明確でない。一般には六年とする記述は多いが、月日までは示していない。『札幌区市街各村之開拓ノ顚末』(明治十年)では上手稲村の項に、「明治七年五月村名ヲ上下ニ分ツテ[字ホシヲキ」(ママ)ト唱フルヲ下手稲村トス]上手稲村ノ称名下ル」とし、下手稲村の項では「明治六年ニ至テ始テ一村落ヲ為ス[始テ手稲村号ヲ下セリ]」と、記述に相違がみられる。この記述はそのまま『移民履歴調』(明治十一年 市史 第七巻)、『開拓使事業報告』(十八年)に踏襲されている。しかし、当時の布達が残っていないために両説の当否が確定できないのである。
 ここで改めて分村の年月の検証を行うと、六年十月頃がその時期とみられる。この時下手稲村副戸長管野格が任命されており(市史 第七巻九四四頁)、これ以前にすでに上手稲村には伊東信正が在任していた。この副戸長設置をもって下手稲村成立の時期と考えられるのである。もうひとつ上・下手稲村の村名が記載された史料を探査すると、初見は六年九月に出された開拓長官黒田清隆の諭達で、これは十月十九日に市在に布告されており、そこに記された諸村名の中にはじめて上手稲、下手稲の村名を認めることができる。以上の二点から上・下手稲村の分割は六年十月頃と判断できるのである。

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写真-2 上手稲、下手稲の初見資料(市在布達 民事局明治6年従6月至12月 北大図)