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開墾

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 屯田兵と家族は三年間だけ米と塩菜料を給与されるが、その後は自活し兵役に服することになっていたので、入地のその日から自活へ向けての取組みが始まる。その方策として採用されたのは、当時北海道開拓の最大課題であった農業で、屯田兵制は北海道の未開地を農耕地にかえ、そこに屯田兵という農民が定着就産し、農業を確立することにもうひとつの目的があった。大鳥圭介安田定則等は農業の中から特に養蚕製麻の二種を選んで自活の方策に据えようと考え、屯田兵入地に先立って次のような計画を立てた。
(前略)屯田ノ者、都テ三ケ年間給助致シ、爾後自産ヲ以兵役ニ充テ候儀ニ有之、且ツ北海道ノ産業必ス夏秋間ニ限レハ、授産ノ方法全備不致候テハ永久ノ策ニ無之、因テ昨年七月熊谷県下ヘ出張、蚕業実施ノ模様ヲモ目撃シ、猶官員ヲ各処ニ派出セシメ、天度ノ寒温地味ノ肥瘠等比較斟酌ノ上、養蚕植麻ヲ以テ屯田授産ノ方法ヲ確定シ、右ニ属スル工場建設且家作モ専持久ヲ要シ一層堅固ニ構営致候ニ付テハ、別段費用相嵩ミ候得共、前条費額ニ超越セサル様可取計ニ付、最前申出候概算凡六千人募移ノ積ニ候処、自然其額適宜減少致シ候儀モ可有之候条、此段上申仕置候也
  明治八年三月廿四日
陸軍中将兼開拓長官 黒田 清隆
    太政大臣 三条 実美殿

(開拓使申奏録)


 開拓使はこの計画を強力に推進していった。たとえば明治九年、開拓使の重要案件第一四条に「屯田兵員ハ専ラ蚕業ト麻トヲ以テ生計ヲ営マシムヘキ旨既ニ指令シ置タリ、依テハ右ニ用ユヘキ諸器械等、毫モ欠ル所ナキ様ニ整頓シ(中略)毎戸自立ノ産業ニ就シムルノ目的ヲ確定」(開拓使布令録 明治九年)すべきだとし、多くの手立てを講じた。
 まず未開の適地を選定し、伐木抜根整地耕転し、そこに養蚕のための桑苗や製網の麻種を植播することが急務となった。土地の給与については第六編四章に述べることとし、ここでは自活就業の最初の関門となる開墾の実績をまとめておきたい。琴似兵村では入地初年共同開墾作業を行い、各戸に未開地を給与しなかったため、勤惰の差を生じ不満が多く、翌九年から各家族それぞれ自己の給与地を開墾、但し土性地形の善悪差をやわらげるため援助協業を行った。山鼻兵村でもはじめは家屋周辺開墾の共同作業を実施したが、原則として初年から各自給与地の開墾に取組んだ。

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写真-11 共同開墾を始めるために集合した琴似兵村の人びと(北大図)

 両兵村における開拓使廃止までの開墾地積は表6のとおりである。初年に広い面積を開いているが、琴似については入地に先だちアメリカ輸入プラオを使った桑苗畑の請負開墾がなされ、山鼻についても隣接既墾畑を兵村用地内に編入したためであろう。十年の大幅減少は西南戦争出兵による荒地化が影響している。それらを含め、十四年末の一兵員家族あたりの開墾地積は琴似が一町二反二畝(約一・二一ヘクタール)、山鼻が一町四反四畝(約一・四三ヘクタール)にすぎない。この時の給与地は一兵員家族に一万坪であったから琴似で三六・六パーセント。山鼻四二・二パーセントの墾成率となる。その七年後をみると琴似一町七反、山鼻一町九反にしかなっておらず、両兵村の兵員と家族にとって開墾がいかに困難であったかうかがえる。
表-6 兵村の農耕地面積
兵村琴似山鼻対前年増減
8年48町9反48町9反   48町9反
9年201. 4218町2反419. 6370. 7
10年209. 779. 8289. 5-130. 1
11年250. 9212. 1463. 0173. 5
12年251. 8309. 9561. 798. 7
13年267. 4341. 1608. 546. 8
14年292. 9345. 5638. 429. 9
開拓使事業報告』第5編より作成、但し13年の数字は事業一覧概表により修正。