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移住の新展開

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 札幌周辺をはじめ北海道に移住者が増加してくるのは、開拓使も廃庁をむかえる明治十四年(一八八一)頃からである。西南戦争のため政府は紙幣を濫発し、戦後はインフレーションを惹起し、そのあと大蔵卿となった松方正義が財政再建を目的としたデフレーション政策をとったが、経済は混乱し不況にみまわれた。その結果、無職無産の士族の窮乏化が強まり、農村では階層分化が激化し、また小作農民や貧農層の窮迫も強まり、これらの人びとが新天地を求めて北海道へ移住するようになってきた。開拓使でも十二年四月に移住民渡航順序を定め、開拓使の附属船に乗船する移民の船賃は無料とし、また一度に五〇人以上の集団で移住するものに対し、もよりの港に寄港することにした。この規則は移住に要する交通費を大幅に軽減させ、移住民の増加に大きな役割を果たした。
 この時期の移住形態の主要なものは、士族・農民層をわけると以下の形態がある。
  Ⅰ士族移住 (1)旧藩主の事業 (2)結社・会社組織 (3)移住士族取扱規則 (4)屯田兵
  Ⅱ農民移住 (1)会社・大農場 (2)結社組織 (3)団体・集団組織 (4)個別、その他
 Ⅰ士族移住のうち(1)旧藩主の事業は、旧名古屋藩主による山越郡八雲村の徳川家開墾地、旧山口藩主毛利元徳の余市郡大江村の大江開墾などがある。札幌周辺ではこの種の事業はなかった。(2)結社・会社組織を札幌周辺でみると、現在の北区福移に入植した開墾社手稲区山口の植産会社がある。(3)移住士族取扱規則では、岩見沢、木古内、鳥取村(現釧路市)に四〇〇戸近くが福岡・山口・鳥取県などから移住している。開墾社の社員も特別にこの規則が適用された。(4)屯田兵はこの時期、わずかに野幌・篠津に移住をみただけであった。(3)(4)が〝官営〟による移住であるのに対し、(1)(2)はいわば〝民間〟によるものである。
 Ⅱ農民移住のうち(1)会社・大農場は、第四十四銀行頭取の岩橋徹輔がおこした北海道開進会社があり、下手稲村にも会所が設置された。浦河に入った赤心社も名高い。札幌周辺では篠路村の興産社苗穂村愛育社月寒村克修社がある。(2)結社組織ではこの時期、帯広の晩成社が有名だが、札幌周辺では現在の豊平区里塚に入植した報国社、江別市幌向の開成社がある。(3)団体・集団組織は(2)と違い規則をもたない自由な集合体によるもので、和田郁次郎が首唱者となった広島町の広島開墾、河西由造による厚別区の信濃開墾、豊平区清田の岡山団体、南区廉舞の広島団体がある。(4)個別、その他も多くみられるが、まだこのころは後年にみられる程の高い割合を示しておらず、たとえ個別移住をしても(1)~(3)のネットワークを利用したものであった。
 この節では上述の形態に即して、この時期における札幌市域の移住状況をみていくことにする。