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日の丸・天長節

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 開拓使官員の休日は、はじめ一、六の日を定めていたが、五年四月二十三日をもって朔望日曜と決定した。これは八年四月一日の太政官布告により、日曜全休、土曜半休となるまで続けられた。このほか祝祭日も太政官布告により、元始祭、新年宴会、孝明天皇祭、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭など皇室の祭祀が加わった。さらに札幌においては、札幌神社の例祭が開拓使の行事として行われ、七年からは毎年六月十五日を例祭日と決定し、官員から一般庶民にいたるまでこの日を休業日として神社へ遙拝に行くよう布達された(開拓使公文録 道文五七九五)。
 開拓使官員の日曜日ごとの休日は、官営諸工場で働く人びとにも適用され、商店の番頭・丁稚等の正月と盆の薮入りのみとは大きく異なる生活習慣をもたらした。
 七年開拓使は、日の丸の掲揚を許される日を取決めて布達した(開拓使公文録 道文五七九三)。掲揚日は一月一日、元始祭(一月三日)、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、天長節の六日のみで、しかも官庁のみに限られていた。後に新年宴会、孝明天皇祭、新嘗祭も加えられた。しかし日の丸掲揚は、祝祭日に「祝意ヲ表スル」ものと規定され、一般に用いることを禁じていた。九年開拓使では、従来祝祭日のみ本庁、巡査屯所、学校、病院、その他分署等で日の丸掲揚をしてきたが、本庁をはじめ官衙はすべて掲揚におよばないと達した(開拓使公文録 道文六二一四)。日の丸が官庁をはじめ一般庶民に掲揚を許されるに至るのは以後のことである。
 日の丸が一般化する以前に、天皇と皇后の写真、すなわち「御真影」が開拓使本庁に六年十二月下賜され(開拓使公文録 道文五七七二)、七年から以後紀元節、天長節等には官員はじめ一般庶民にいたるまで拝覧する儀式として定着するようになった。
 さらに皇室の存在をさらに印象づけることになったのに、明治天皇の北海道巡幸がある。十四年の巡幸では、明治天皇ははじめて札幌に足を踏み入れ、開府以来一二年を経た開拓使の諸施設を見て廻った。巡幸は厳重な警戒のなかで行われ、札幌へは八月三十日小樽の手宮から前年開通なったばかりの汽車で札幌停車場に降り、豊平館を行在所とした。札幌の市街では、日の丸に紅白の球灯を掲げ、遠近の各村より一目見ようと集まった老若男女で旅館は満杯になるほどの、まさに開府以来未曽有の賑いとなった(函館新聞)。当時篠路村十軒(じゅっけん)に住んでいた大萱生秀行も本府まで泊りがけで巡幸を見に行った一人で、八月三十一日の日記には、「主上所々御覧ニ付拝ス」(舳中鏡)と記している。
 八月三十一日の巡幸の経路は、木挽場、製粉場、製鉄所木工所、紡織場、麦酒製造所、農学校、競馬場の順で、競馬場ではトコムというアイヌの競馬を見せ、トコムに晒布一匹が下賜された。また、巡幸に同行した有栖川宮は、島松の開拓者中山久蔵と有珠の開拓者田村顕允の宿所に出向いて開拓の顚末を聞いている。
 翌九月一日には、天皇は真駒内牧場に至り山鼻村を通って山鼻学校、農学校、博物場、清華亭を巡り、清華亭では対雁アイヌが踊りを演じるのを見ている。やがて九月二日、巡幸は豊平橋をあとに豊平村に入り、島松の中山久蔵宅で休息し、中山久蔵に金三〇〇円と銀盃一個、麻一包を下賜している。こうした天皇巡幸の様子は、函館では『函館新聞』を通じて「北海道御巡幸沿道略記」として報じられたが、札幌では前年発刊の『札幌新聞』は残念ながら廃刊になっており、天皇巡幸を報じる新聞はなかった。