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アイヌの聚落と戸口

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 札幌に開拓使本府を建設しようとした明治初年の段階において、アイヌの人びとの聚落がどこに何戸あったか明確に示した文献はない。幕末の段階においては、イシカリ十三場所のうち人家があったところとしては、「上サツポロ」一軒(モニヲマの家、但し慶応元年の人別帳になし。場所は豊平川左岸、「トヨヒラ」通行家の対岸部)、「ハツサム」四軒(乙名コモンタ、小使リカンクル、土産取イワウクテ、ハシコカイニ。場所は発寒・琴似川中流域左岸)のみで、「シノロ」・「ナイホ」ともに漁場・コタンは消滅し、廃墟と化していたのであろうとされていた(市史 第一巻四編六章アイヌ社会とコタンの変貌参照)。
 ところで、明治二年十一月開拓使においても、当時銭函仮役所詰の大主典十文字龍助が、小使鶴松にいわゆるイシカリ十三場所のアイヌの聚落を調査させ報告させている。それによれば現在の札幌市域では、「札縨上下 但石明より川筋登凡拾里程 土人小家凡拾八九軒」、「発寒 但同断凡九里程 土人小家凡拾七八軒」、「シノロ 但同断凡九里程 土人小家凡弐三軒」、「ナイホヲ 但同断凡拾五里程 土人小家凡七八軒」(十文字龍助関係文書補遺 札幌の歴史一四号)とあることから、四十数軒が存在したことになる。これは、幕末の段階から多少人口が回復したにせよ後の調査データと著しく異なる。もともとアイヌの聚落と漁場とは一致していたわけでなく、幕末のアイヌの多くは石狩川筋で漁業に従事し、自己の聚落に帰るのは晩秋から冬にかけての一時期のみといった生活をおくっていたことが原因であろうか。
 また『札幌昔日譚』によれば明治初年のアイヌの聚落は、偕楽園(現在清華亭のある付近から琴似村境まで存在した開拓使の試験場)内に四、五戸、発寒川流域の線路より北一〇丁ほどのところに約二〇戸、また札幌元村にも数戸、ほかに牧場に雇われていたアイヌが何人か居住していたとさえある。
 次に明治初年の文献から、アイヌの聚落と戸口のおおよそを再現してみよう。
琴似村〉ここはサクシュコトニ川流域に沿った開拓使の試験場偕楽園内に位置していた。その聚落の構成員は、行政上琴似村に属していたようで、八年作成の琴似村「戸籍簿」(内館泰三筆記史料八)によると三戸、四人が記されている。
  第五六番地     琴似又一
  第五七番地  農業 志登礼武天(明治八年十一月十五日病死届)
            志計武多登(明治十一年十二月十四日重田藤吉と改名)
  第五八番地  農業 菱田時蔵 (明治十三年十二月十三日病死)

 この聚落には、八年に酒田県士族堀三義が尋ね、八月十一日の日記にその様子を記した個所がある。堀が偕楽園の官邸を過ぎ数百歩行くとアイヌの家二、三軒がある聚落に出た。住居は摺鉢を伏せたような形で、老夫婦が中央の炉を囲んで座っていた。家の中には獣皮や肉、魚肉、木皮等が置いてあり、一段高いところには「奇器」を飾り、老婦の側にはアツシを織る道具もあった。その様子を堀は、「何ゾ言語筆記等ノ尽シ所ナランヤ(中略)実ニ世外ノ居ト云フ可シ」(北役日誌)と、別世界に足を踏み込んだかのように驚嘆して記している。この聚落こそ、琴似又一(松浦武四郎の「イシカリ場所人別帳」の、下カハトの「マタエチ 十六歳」と同一人物)の家がある本府にもっとも近い聚落である。
発寒村〉ここは発寒川流域に沿った聚落で、『明治七年発寒村地図』(北大図、市史 第一巻四編九章参照)によると、アイヌの人びとの耕地六戸ほどが発寒川の右岸、発寒村の南端に位置しているのが確認される。さらに十一年作成の『地価創定請書』(道文二五〇三)では、次の六戸が九年六月にそれぞれ耕地の割渡しを受けているのがみられる。
  第二三番地 木杣卯七  二五一〇坪  第二六番地 伴 六  三〇〇〇坪
  第二四番地 発寒小紋太 三〇〇〇坪  第二七番地 多気安爾 三七〇〇坪
  第二五番地 能登岩次郎 二三〇〇坪  第二八番地 規也里  二五〇〇坪

 以上六戸の戸主のアイヌ名は、クソマウシ、コモンタ、イワヲクテ、ハンロクテ、タケアニ、イサンケアレであったと思われる(イシカリ場所人別帳)。
〈札幌村〉ここはフシコサッポロ(伏古)川流域に沿った聚落で、「札幌村(明治四年)」の地図(市史 第一巻)では「土人イコユキ」一戸がみられる。これは、慶応元年(一八六五)の『石狩土人惣人別取調書上帳』(田中実氏蔵)の下ツイシカリ乙名イコレキナで、慶応年間に札幌元村に移住してきたらしい。イコレキナには次弟イソレウクと末弟アクヌカルがいたが(同前)、この兄弟が後の和名半野六三郎小藤友輔(アクヌカルと同一人物か疑問も残る)と思われる。後述するようにイコレキナ(和名古川伊古)と半野六三郎は五年ともに夫婦で開拓使仮学校生や農業現術生となって東京へ行き、イコレキナは東京で病気のため死亡している。十二年作成の『地価創定請書』(道文三一四八)では、次のように二戸のアイヌの人家があることになっている。
  第一四番地 宅地拾坪 小藤友輔
  第一五番地 宅地拾坪 藤戸善蔵

 このうち、小藤友輔半野六三郎の弟と思われるし、藤戸善蔵については不明である。このほか札幌村には開拓使の牧場があり、そこで雇われていたアイヌの人びとが何人かいた。六年に札幌を訪れた林顕三の『北海紀行』に描かれている、牧場で働くアイヌの牧士たちは、札幌村ではなかろうか。

写真-3 札幌の牧場で働いていたアイヌの牧士たち(林顕三『北海紀行』より)

 十四年九月、天皇巡幸に際し開拓使が把握したアイヌの戸口は表7のごとくで、樺太から九年に移住した対雁アイヌを除くと戸数わずかに一一戸、四〇人であった(郡区役所往復 道文五二一四)。
表-7 明治14年札幌の村別アイヌ戸口表
村 名戸 数人 員
琴似3(  3)7(  7)5(  5)2(  2)
札幌3   25(  8)15(  3)10(  5)
篠路5( 12)8( 41)3( 26)5( 15)
対雁139(139)733(729)367(358)366(371)
合 計150   773(785)390(392)383(393)
1.『郡区役所往復』(道文5214)より作成。
2.( )内は明治15年の戸口を『札幌県治類典』(道文7421)より作成。