ビューア該当ページ

本府建設とアイヌ労働

538 ~ 540 / 1047ページ
 明治初年の札幌は、幕末においてイシカリ役所と箱館奉行所あるいは各場所詰役人間の御用状の伝達や物資の輸送、人馬継立、人足など多くの労働力をアイヌに依拠していたのとまさに同様であった。しかも二年冬段階には、石狩郡を管轄していた兵部省が、石狩川下流域へ出漁していた札幌郡をはじめ上川・空知郡方面のアイヌ兵部省管轄下に置こうと、一方的に石狩郡内への移転命令を出したことから混乱が生じている。それは兵部省が従来通りの産物(熊膽、熊皮、狐皮、獺皮等軽物)確保を狙ったために起きたもので、同年十二月になっても札幌郡発寒村・琴似村アイヌは帰村できなかった。このため、同十二月発寒村駐在の開拓使掌平田広利は、琴似村の又一を通して説諭し、やっとのことで帰村させたという。一方の上川方面のアイヌの場合、首長クーチンコロの抗議で撤回させたという(上川見聞奇談)。本府建設をひかえて近隣のアイヌ労働力の確保が必要とされたからであろうか。二年末から三年の『御金遣払帖』(十文字龍助関係文書 市史 第六巻)にも、銭函仮役所と札幌間の物資や御用状などの継立、あるいは開拓使所轄地間の新道開削工事や人馬継立などに、アイヌの人びとが人足や人夫としてたくさん雇い入れられているのがみられる。この場合、忍路余市勇払美国、沙流、釧路といった遠方のアイヌまでが「札幌御造営人夫」として、営繕あるいは運送方として雇われ、それも数カ月にわたって滞在を余儀なくされていた。
 このように、札幌に長期にわたって足止めされた遠方のアイヌの人びとは、滞在している間に出身地方が諸藩の管轄になったがゆえに、帰郷を迫られる場合もおこっている。たとえば、沙流郡アイヌ一一人は、三年一月より「札幌御造営人夫」として札幌で雇われていたが、同年三月、沙流郡仙台藩の支配所になったので帰郷願が出されている。また、二年十一月より札幌本府造営のため勇払・沙流・新冠・静内・三石五郡の馬五〇頭を借り上げていたが、三石郡を除いて支配藩へ引き渡されることになった。この場合、馬の牽送はアイヌの人びとが携わっていた(各所往復 函図)。
 明治初年の札幌では、このように交通・土木・運輸等全般にわたってアイヌの労働力に依拠していた。このため札幌付近には札幌元村をはじめ数カ所に牧場が設置され、前述したようにアイヌが牧士として雇われていた。この場合、雇い入れる側とアイヌ間で言語不通によるトラブルも発生している。たとえば三年十月、余市アイヌでイヘニ(あるいはエペ)は、約束が違うことを理由に逃亡している。約束では一日金二朱と米一升となっていたにもかかわらず、実行されないため、「活計難渋」にいたったので「秋味漁事」に行ったというものである(小樽往復 道図)。また、三年に平田開拓使掌が上川地方を見分した折、アイヌを先導役や粮米運輸の人足に雇い入れているように、アイヌの労働力を抜きにしては不可能であった(上川見聞奇談)。