明治十年、清国よりコレラが伝播し、西南戦争帰還兵に媒介されて東京、大阪、長崎などで流行した。北海道へは同年九月、函館港で西南戦争に従軍して帰還してきた屯田兵二人がコレラにかかっているのが発見され、ついで函館停泊三日間に一〇〇〇余人の同乗者からまた一〇人が発病し、いずれも七重浜避病院に収容された。この屯田兵を乗せた船が小樽に入港するまでにさらに五人の患者が発生し、高島郡祝津の仮病院に収容された(新北海道史 第三巻)。
札幌でも山鼻・琴似両村に帰還した屯田兵がコレラにかかっているのが発見された。同年十月、札幌郡上手稲村牧場内官舎を仮避病院とし、一八坪の伝染病室を一二七円で新築して患者を収容した(開拓使事業報告)。結局同年の場合、十月から翌月にかけて帰還屯田兵から一五人のコレラ患者が発生し、うち五人が死亡した。
十年の流行のあとコレラは十二年の大流行を迎えた。同年、忍路郡忍路村に停泊中の商船にコレラ患者が発生し、同村、高島郡、古平郡、石狩郡、札幌へと伝播してきた。札幌市中でも患者が八月六日頃から発生しはじめ、九月十日までにコレラ患者数は五人となり、うち三人が死亡したと報告されている(虎列拉病一件書類 道文三七一四)。このため急拠上手稲村にあった仮避病院を円山村(現大通西一九丁目)に移して八月二十五日開院して患者を収容した。同時に消毒所も増築している。結局この年のコレラは、円山村の避病院が十月十日に閉じられるまでに患者七人を出し、うち六人が死亡するという致死率が非常に高い結果となった。警察署の方でもコレラ対策として南後志通(現大通)にコレラ予防取締仮事務所を移したり、また一時山鼻村にも消毒所を設けて対処している(開拓使事業報告)。市中以外では、九年対雁村に移住した樺太アイヌにも十二年九月頃よりコレラ患者が発生しはじめ、シビシビウス・来札・対雁合わせて十月二十五日までに患者七四人、うち死者三〇人(高畑家文書によれば患者五四人、うち死者一九人とある)を出す大惨事となった(対雁移民授産書類 道文五一八五、アイヌ政策史)。
十二年のコレラ流行は、全国で一六万二〇〇〇人余がかかり、うち一〇万五〇〇〇人余が死亡するといったように各地で猛威をふるった。北海道でも十月末までに患者数札幌本庁二三五人、うち死亡一二四人、函館支庁二五三人、うち死亡一八六人、根室支庁一一人、うち死亡五人にものぼった(開拓使事業報告)。
このようにコレラは、かつて日本人が経験したことのない致死率を示したので、コレラ対策が国家レベルで対処されねばならなかった。十年の流行の時、政府が「虎列刺病予防法心得」を制定して配布したのもこのためである。開拓使札幌本庁でもいわゆる伝染病対策として九年に官舎二棟を付属伝染病室としたが、翌十年に伝染病室を札幌通(現北三条東二丁目)と前述のように上手稲村とに新築して、伝染病患者を隔離した。コレラ流行後の十一年には病院規則を改正して、チフス、猩紅熱、赤痢、コレラ、天然痘、はしかなどが発生した場合には、ただちに病院衛生課と協議して予防法を施すべきことを定め、伝染病に対処しようとした。また、十二年のコレラ流行時に開拓使は、伝染病防止策としてたとえば家や船に対して石炭酸水・塩酸などの散布、あるいは魚類・野菜類の検査、汚物の焼却・消毒、さらには劇場・寄席、その他集会の禁止など多くの処置を行った(同前)。