関東大震災後の札幌の大きな特色の一つに、市民が担う文化団体が叢生したことがあげられる。
いわば、従来の欧米文化の先駆的な受容者であった、北海道帝国大学やクリスチャン(とりわけ賛美歌がコーラスに与えた影響など)・知識人といった、「閉じたサークル」を逸脱した、新たな社会の担い手、サラリーマンを核とする新中間層や、労働者階級が登場してくる。
昭和十三年十月の市議会選挙において、従来の市政を握ってきた知識階級「インテリ」(大通小学校区に代表)と、サラリーマン(山鼻小学校区に代表)や労働者(北九条小学校区に代表)といった新興階級の対立のもとに展開するが(第二章参照、北タイ 昭13・9・30~10・4)、後者のサラリーマンと労働者階級こそ、この時代の大衆文化の担い手であった。
『北海道年鑑』(昭3)にあらわれる札幌の文化諸団体を拾う。
北海道美術協会(大14)、蒼玄社(昭3)、全北海道樺太写真聯盟(昭3)、日本漫画家聯盟北海道支部(大15)、中島オーケストラ(昭3)、北光トリオ(大12)、札幌音楽協会(大12)、札幌ハーモニカソサイテイ(昭2)、新日本音楽協会北海道支部(昭1)、錦心流琵琶札幌教師会(昭3)、先駆芸術協会(大14)、池坊札幌橘会(大13)などの諸団体は、時期的には震災後に設立されたものである。
美術では、在野の団体である北海道美術協会が大正十四年に創立され、はじめて北海道で公募展をおこなう。道展はその後の北海道美術界をリードした。蒼玄社は、昭和三年六月に道展に対抗して、美術学校出身者とその友人たちの、玄人集団であるとの自負のもとに創立された。
昭和三年に発足した全北海道樺太写真聯盟は、大正期以来、写真を「文化」といちはやく位置づけてきた北海タイムス社に対抗して、小樽新聞社が北海道・樺太の写真愛好家グループを網羅したものである。大正十一年に札幌で設立されたアマチュア写真グループのサン・カメラクラブや札幌写真倶楽部も聯盟に所属することとなる(渋谷四郎 北海道の写真 大正・昭和)。
漫画の分野では、大正十五年十月二十日から二十四日まで、今井呉服店で第一回漫画展覧会をおこなった日本漫画家聯盟北海道支部(北タイ)の活動がある。日本漫画家聯盟は、「真の民衆芸術としての漫画の価値の確立とその発達をはかる目的」で、下川矩・柳瀬正夢・村山知義といった若手の芸術家が担う東京支部の結成に呼応して、北海タイムス社の加藤悦郎宅に北海道支部が設置されたものであった(北タイ 大15・7・24)。
大正十二年九月に結成された札幌音楽協会について、『北海道年鑑』(昭3)では、「北光トリオの田上(義也)、石井(春省)、小川(隆子)三氏、及びピアニストの井口春子夫人、鈴木清太郎氏、ヴアイオリン名手熊沢良雄氏、ソプラノ歌手レーク夫人、バスの東季吉氏等相集り同人組織の下に真摯なる研究例会を続けてゐる」と紹介する。また年鑑には出てこないが、札幌音楽協会の声楽部として大正十二年(昭和五年、札幌混声合唱団と改称)に、鈴木清太郎が率いる札幌混声合唱団が生まれている。
すでに述べたように田上義也が札幌に来るのは大震災が契機である。アカシヤ楽器店(南4西3)を開き、バイオリンのジンバリストやハイフェッツなどの一流の音楽家のプロモーターであった石井春省(はるみ)が、海軍軍楽長を除隊するのが大正十二年の冬。戦前の札幌におけるピアノの名手であり教育にも多大な業績を残した鈴木清太郎が、東京音楽学校を卒業し、庁立札幌高等女学校に勤めつつ本格的に札幌での音楽活動を開始するのが昭和二年から。そしてバイオリンの名手、熊沢良雄が北大工学部鉱山工学教室の助教授に赴任するのは、大正十四年である(前川公美夫 北海道音楽史、文野方佳 札幌放送局オーケストラ、初代指揮者、石井春省 札幌の歴史18号)。
札幌音楽協会が発行した『サッポロの音楽』の創刊号(昭4・3)に香宗我部寿が「創刊の辞」を載せている。「会員間の研究ばかりでなく、今迄以上に幌都楽壇の一方に先駆となって音楽の向上、殊に大衆への普及、音楽会の実行運動、音楽家と社会との連絡、音楽批評等を目標にして更に進出を試みたい」。ここでうたわれた、大衆や社会との接点こそ、この時期の文化団体の特色である。
中島オーケストラは札幌放送局が中島公園に開設した昭和三年に、石井春省を指揮者として発足する。「札幌の生んだアンサンブルの代表的室内三重奏団」と『北海道年鑑』(昭3)に紹介される北光トリオは、大正十二年の大震災後に、田上義也・小川隆子・飯田実(飯田が東京に帰った後、石井春省に代わる)をメンバーとして出発している。大正十三年二月九日に豊平館楼上のホールを満員の観衆でうめた札幌音楽協会主催の音楽会は、北光トリオのおひろめでもあった。「飯田氏のセロ独奏チヤイコフスキー作〈アンダンテカンダビレ〉と最後の三重奏べートーベン作〈アレグロ、コンブリオ〉とはたしかに当夜の白眉たるを失はなかった」(北タイ 大13・2・11)。
また札幌ハーモニカソサイティの活動は、昭和四年の大典を契機とする北海道ハーモニカ連盟の結成の時期から昭和十年にかけて、ピークをむかえる札幌のハーモニカ熱を背景としていた。昭和四年五月二十七日に丸井記念館で、細田恒松、佐藤幸吉のハーモニカ演奏会を聞いたファンの女性は、「モダン・ボーイの集ひであるハモニカ演奏会を批評致します、佐藤様は上手で美男子です、少し女臭いけれど(中略)〝愛と名誉の為め〟は活動写真の活劇見てる様な気持ち」がしたと新聞に投書している(札幌毎日新聞 佐藤幸吉旧蔵スクラップ帳)。当時、モダニズムの先端にハーモニカ演奏があった、その時代の雰囲気をこの記事はよく伝える。
先駆芸術協会は大正十四年に発足した札幌詩学協会の演劇部が、昭和二年に再出発したものである。二年九月から三年十二月までに一〇回の講演をしている。また池坊札幌橘会は「札幌市内外、教授職を以て華道の発展と斯道の研究をなす目的」をもって発足した。
ただここで留意したいのは、洋楽や洋画・コーラス・新劇などを担ったのは、おそらく新中間層とおもわれ、映画・流行歌・芝居などを享受したさらに広い大衆的基盤とはズレがあると考えられることだ。この担い手や享受者が違う、大衆社会状況における文化の階層性の問題は、いまだ研究史のなかで十分につめられていない。