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喫茶店ネヴォとプロレタリア芸術

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その頃(昭和六年の秋頃)はあけても暮れてもたいへんな失業の時代で、失業と貧困のはびこる世相に疑いと怒りを抱き、愛情に飢え文学にあこがれるばかりに眼だけが美しい失業半失業の青年達が中心であった。札幌郵便局、道庁、治水事務所などのインテリ下級職員などに混って、北大の学生や街工場の職工さんなど、一年足らずの間にかれこれ十五、六人の同志が集まったろう。(中略)昔はアカシヤの花の香りにむせび、秋はトウキビの焼ける香りが腸にしみ、石川啄木でなくたってなつかしく切ない街であった。

 日本プロレタリア作家同盟札幌支部準備会に参加した佐々木宣太郎は、感慨をこめて、昭和初期の札幌のプロレタリア文学運動の担い手を回想するが、その頃、札幌に喫茶店ネヴォがあった(笠井清 札幌プロ文学運動覚え書)。
主人は佐藤八郎というプロレタリア美術家で、奥さんは築地小劇場の研究生だった断髪の美しい人であった。コーヒーも高級なものであったし、レコードもクラシックなものばかりで、インテリや大学生や変った芸術家たちのたまり場であった。しかしそれでいて静かな店であり、大判のレコードから流れるべートーベンの『運命』など、目をつぶって聞いている客が多かった。入口に『ネブオ』の字とともにトカゲの描かれたドアがあり、店の中は荒けずりの板にコールタールを塗ったような壁や、片隅の天井から吊下げられたランプからのぼんやりした光の陰に、大きな外国映画のポスターが写しだされているというような喫茶店であった
(同前)

 富士井盛文(ヤップ=日本プロレタリア美術家同盟札幌支部員)が、北海道のプロレタリア芸術文化運動において「あの手作りの喫茶店ネヴオが、大きな指導的拠点」であったと、戦後に回想している。
 以下、佐藤八郎著・編による『ネヴオの記―一九三〇年代・札幌―文化運動の回想―』(昭51)を手掛かりとして、札幌におけるプロレタリア芸術文化運動の展開をみたい。
 ネヴォは小樽出身の佐藤八郎が、昭和三年三月に北二条西三丁目に開店した。十一年十一月に上京するまで、佐藤と妻の丘みづほは、美術・漫画・演劇・文学などプロレタリア芸術文化運動の札幌における発信地をつくるのである。店には、小林多喜二をはじめ、プロレタリア美術家同盟札幌支部のシンパで北海タイムス漫画記者である加藤悦郎日本プロレタリア演劇家同盟札幌支部若林修野口孝一、佐々木晴二など左翼芸術家から、画家の三岸好太郎・節子夫妻、春陽会鳥海青児伊福部昭早坂文雄三浦淳史といった音楽関係者にいたるまで、札幌の若い芸術家が集う場であった。ネヴォはクラシックのレコードをかける音楽喫茶としても、質量ともに、札幌もっとも充実していた(北海道音楽史)。雑誌『北海道―趣味と文芸―』創刊号(昭7・11)にはネヴォの広告が掲載される。「センチな秋の夜……/あらゆるメラン・コリーを拾て/静寂なるムードの中で/コーヒーを喫みつゝ聞く/名曲レコードは……/ネヴオならでは……/聴れません……味はわれません」。
 五年三月十日に日本プロレタリア美術家同盟(P・P)札幌支部を結成した佐藤の最初の活動は、同年五月二十日から二十二日に、北海道物産館で、北海道ではじめてプロレタリア美術展を開いたことである。出品は、P・P本部と札幌支部に加えて、佐藤や森熊猛・深谷亮らが主催した新興美術研究所員の作品も合わせて百数十点にのぼり、三二点が当局により撤去された。佐藤は作品「職業紹介所へのデモ」を出品している。新聞には、「闘戦的な雰囲気」の会場へ、「フタ開けと同時に待ちかねた大衆はどッと場内に雪崩こみ物凄い程の混雑を呈した」と報じられる(北タイ 昭5・5・21)。官憲は、三日間で入場者が一七七〇人に達したとし、一部知識人や小市民階級に相当の感動を与えたとみる(堅田精司 P・P第一回美術展の報道 北海道社会文庫通信 第一一三号)。また興味深いのは、キスリング、ドンケン、ロベールなどの作品を中島公園農業館で展示した「第二回フランス美術展」(昭5・5・23~6・5)を、ブルジョア芸術の代表とし、「両極点の展覧会二つ、札幌に対抗して開く」とする当時の新聞のとらえ方であった(北タイ 昭5・5・18)。このあとプロレタリア美術展は、第二回を昭和七年五月(狸小路博品館)に、第三回を昭和八年七月(薄野蓬萊閣)に開催している。
 第二回のプロ展について、「第一、第二両日とも素晴らしい人気で、労働者のみならず一般勤労者、学生等あらゆる層の美術ファンが早朝から夜おそくまで続々とつめかけてゐる」とし、特にソビエトのポスター展が注目されたとする(北タイ 昭7・5・22)。さらに五月二十六日より三日間、東京のP・P本部員の来札を記念して、プロレタリア美術講習会が、橋浦泰雄「唯物弁証法的創作方法」、寄本司麟「プロ美術について」、長谷川昂「プロ美術運動史」、佐藤八郎「ブルジョア美術批判」といった演題で開かれる(北タイ 昭7・5・23)。
 六年十月にナップ(全日本無産者芸術聯盟)は解体し、蔵原惟人が中心となり工場農村における文化サークルに基盤を置く強力な中央部の創設を目指す、日本プロレタリア文化聯盟(コップ)が設立される。札幌には作家、演劇、映画、音楽、美術の各同盟組織があったが、昭和九年四月以降のコップの解散とともにこれらの札幌の組織も解体する。
 そこで、プロレタリア文化運動の退潮のなかで、佐藤は、「人間性の尊重、ヒューマニックなものの考え方、それだけでも守り育てることが、今の時期には大切ではないか」と考え、富士井盛文野口孝一丘みづほ、照明の佐々木春二の五人で劇団「第一歩」の活動をはじめる。