明治四十一年からはじまった黒百合会の活動は、「有島武郎およびその白樺派を通じて、中央画壇との交流、海外美術の紹介といちじるしく貢献」したといえる(読売新聞 昭34・8・7、なかがわつかさ 北海道の美術)。大正期における、中央画壇と海外美術の紹介という、黒百合会の二つの役割について、早くは第五回展覧会(大1)には、有島の尽力で本物のロダンの彫刻(四点)を借り受けているし、第八回(大4)展覧会にはロダン、ミレー、シャバンヌの複製画が展示され、第九回(大5)展覧会には岸田劉生、第一〇回展覧会(大6)には梅原龍三郎、正宗得三郎、安井曾太郎、第一二回展覧会(大8)には関根正二の素描や木田金次郎の素描・油彩が出品される。一九回展覧会(大14)には黒百合会OBの小熊捍教授が、カンディンスキー、シャガール、クレーなどの滞欧コレクション二八点(ほとんどが原色の複製画)を展示し、この展覧会に対し外山卯三郎は、表現主義は「自意識の認識論的自覚」であるとの賛辞を寄せる(北タイ 大9・11・10、栃内吉彦 黒百合会の今昔譚 黒百合会・六十年記念誌、北タイ 大14・10・9)。
有島武郎自身は、大正三年に札幌を去るが、俣野第四郎が黒百合会展覧会を見にいったり、木田金次郎をモデルとした『生れ出づる悩み』など有島の作品を、妹とともに綴り糸が切れるほど回し読みしたという逸話から推しはかれるように、札幌に育つ次世代の画家たちへの有島の影響は大きい(鈴木正實 俣野第四郎 人と芸術)。
また黒百合会を通じて、大正期にセザンヌやゴーギャンなどの後期印象派やカンディンスキーなどの表現主義の複製画が紹介された意味は大きい。白樺社や外国の複製であっても、大衆社会成熟前の当時のメディア状況下におけるインパクトの強さは計り知れない。
さらに東京の日本の画壇の潮流が、札幌に同時代的に紹介されたこととして、二科会の有力作家の作品を黒百合会が紹介していたことは重要である。二科会は、文展に反発し分かれ(大3)、当時モダニズムの先端を走っていた。田辺至、梅原龍三郎、有島生馬、正宗得三郎の作品が黒百合会の展覧会に陳列された。大正八年の黒百合会展覧会では、二科で認められつつも二〇歳で夭折した関根正二を死の年に紹介している(北タイ 大8・10・17)。
昭和初年に、今度はフランスの本物の美術を黒百合会は紹介する。大規模なフランス美術展を二回おこない、札幌のみならず全道に大きな影響を与える。
虻田郡倶知安町出身の小川原脩は、のちに東京美術学校の学生のとき美術評論家の外山卯三郎を介し、福沢一郎の影響をうけ、シュールレアリズムの代表作「雪」(昭15)を残す。小川原は、倶知安中学の四年か五年のとき、一九三〇年協会展やフランス美術展を見に行き、「そこでマチスなどの絵に強烈な印象を受け」たという。そしてこの美術展を契機に、小川原は東京美術学校を受けることとなる(道新 昭62・2・24夕、新明英仁『小川原脩』)。
昭和二年六月八日より二十三日まで、中島公園農業館で日仏芸術社と黒百合会が共催する第一回フランス美術展が開かれる(好評につき当初より五日間延長される)。これは同年三月に上野の東京府美術館で開かれた第六回フランス現代美術展のうち約四百点を札幌に移動させたものであった(今田敬一 北海道美術史)。
バルビゾン派のコローの「風景」、ミレーのパステル画「羊飼」、印象派ではモネ「橄欖樹」「断崖」、ピサロ「農家の一隅」、シスレー「冬の風景」、ブータン「浜辺」など、そして後期印象派では、ゴッホ「鰊」、セザンヌ、ゴーギャンの木版「チチファルル」そしてフォーヴィスム(野獣派)のマティスの素描、ヴラマンク「村の風景」「花」、ルオー「女の顔」、ブラック「静物」といった、一九世紀以降のフランス絵画を通観できるものであった。またロダンの彫刻「アダム」も出品された(北タイ 昭2・6・8~10)。
昭和五年五月二十三日から六月五日までの、第二回フランス美術展(中島公園農業館)では、ヴァン・ドンケン、キスリング、ザッキン、そして彫刻ではロダンといったフランス現代芸術家の作品紹介に加えて、二科会の石井柏亭、田辺至、正宗得三郎、安井曾太郎など日本の現代作家一三氏三五点が展示された(北タイ 昭5・5・27~28)。そしてフランスの工芸品も展示され、「一番目を惹きつけるものは、何といっても陶器玻璃器等の美術工芸品で、特に婦人連は花瓶や果物鉢等の雛段の前に吸ひつけられた様に容易に動くものではなかった」(北タイ 昭5・5・23)。
昭和四年六月二十六日から七月九日まで同じ農業館で、一九三〇年協会の移動展が行われる。北海道美術協会が主催で、黒百合会が後援したが、建築家田上義也の斡旋により実現したものであった(北海道美術史)。小島善太郎・中山巍(たかし)・里見勝蔵といった会員や、評論家の外山卯三郎が来札し、六月二十一日の美術講演会で外山の「純粋絵画論」ほかの講演がなされる。会期を通じて、入場者は一二五三人、入場料総額は二五四円四五銭にのぼった(道展日誌)。「連日盛況」と題する新聞は、「異常な感覚を主題として描ける佐伯(祐三)の十数点と、リアリズムに立脚して而もリアリズムを脱した表現に独自の芸術を生み出してゐる小島(善太郎)氏の作品等本道画壇を刺戟し向上させるものとして欣ばれてゐる」(北タイ 昭4・7・7)と伝える。
このように、昭和初年には黒百合会はフランス現代美術紹介という大きな意味ある活動をおこなうが、しかしながら基本的には大正十四年の北海道美術協会(道展)の結成をもって、今田敬一のいうように黒百合会の社会的役割は終わり、「学内のグループ活動という本来の姿」に戻ってゆくのである。いまや三岸の率いる北海道独立美術協会の第一回展が開かれる昭和八年には、「今田敬一氏が沢山の学生服を着た赤ちやんをオンブして「子守唄」の美しさが嬰児の可憐さよりは胸に深々としみて来た」と揶揄されるように、その歴史的使命を終えたのである(ゐのだ生 北海道絵画動向『北海道』昭8・7月号)。
その背景に札幌農学校以来の文化発信地としての「閉じたサークル」を逸脱した、関東大震災後の芸術を担う、新たな市民層や大衆文化の登場があった。