1-9
「従犀川渡舟善光寺遠見之畧図」(犀川渡舟より善光寺遠見の略図)
現在の丹波島橋付近にあった丹波島の渡しを、南から見た図です。右下に「従丹波嶌駅善光寺迄一里」(丹波島駅より善光寺まで一里)と書いてあります。丹波島宿(丹波島駅)は渡船場の南西にありました。川筋が3本あって、中の流れには橋が架かっていますが、他の2本は舟で渡っています。綱を渡してあって、舟の先頭にいる船頭がそれをたぐって舟を渡すのです。手前の舟に乗っているのは大名行列のようです。対岸の吹上には、一対の石灯籠が見えます。
1-12
「従石堂田甫善光寺市街ヲ見上ルノ畧図」(石堂田んぼより善光寺市街を見上ぐるの略図)
南石堂付近から北を眺めた絵です。道路は北国街道で、現在の中央通りです。左から流れてくる川は古川で、この川から北側は家々が建ち並び、市街地になっていることが分かります。現在ここは北石堂町と南石堂町の境になっていて、右手から二線路通りが合流している交差点です。古川には板橋が架かっていて、手前の両側には石灯籠が建っています。町に入ってすぐ右側の「カルカヤ」は、かるかや山西光寺です。絵の右下には水車があって、精米などをしているのでしょう。馬から俵を降ろしているのはそのためです。
1-19
善光寺の御回向(御開帳)を予告する開帳札です。この札の説明は1-18の左側にあります。札には「信州善光寺如来 六万五千日囘向 丁未年三月十日より四月晦日迄、本堂に於て前立本尊開帳、御印文頂戴、毎日四ッ時(10時)法事修行有之(これある)もの也」と書いてあります。右下には、「此札之書方者多分齟齬(そご)可有之(これあるべし)。只其大方ヲ示スノミ。覧人不可謗(そしるべからず)」とあります。札の表記は正確でないかもしれないというのです。
1-21
犀川の丹波島の渡しの船頭が、綱をたぐって舟を渡している絵です。浮世絵のような構図です。
1-22
荒木村の入口に建つ標柱です。標柱には「荒木村 従是(これより)北西 御代官 川上金吾助支配所」と書いてあります。左には「○中之条御在陣ト可知(しるべし)」とあります。荒木村は幕府領(天領)で、中之条代官所(埴科郡坂城町中之条)の代官川上金吾助の支配下にあることを表示しているのです。
1-23
「善光寺一ノ夜燈前ヨリ北ノ方ヲ見ワタセシ図」
丹波島の渡しの北側を描いています。これは原本にない絵で、芹田村荒木の二川亭柳霞が独自に加えたものです。この場面の絵は他に例がなく、貴重な存在です。「吹上の石燈籠」(1-21)と呼ばれた左右の石灯籠は、現在も丹波島橋の北詰に建っています。その前に建つのが1-22の標柱でしょう。それらの北には報恩寺と船番所があり、北には善光寺七社の一つ、木留明神(木留神社)が描かれています。左には「春ノ雪解ノ増水或ハ洪水等ニ因テ、船塲口ノ位置変更スルヲ以テ、夜燈前ヨリ南ハ往来口三方ニ別レヲリタルヲ示ス」と書いてあります。
1-24
左側に説明があるように、これも二川亭柳霞が1-23図と同じ場面を道路を主に模式的に描いた、原本にはない独自の絵です。渡船場の位置は移動するので、3本の道が石灯籠の前に集まっています。
1-31
「小市往還ヨリ善光寺ヲ見ル図」
善光寺の門前町の全景を詳細に描いた鳥瞰図として貴重です。町々に2本ずつ吹き流しが立てられているのは、御開帳中だからです。善光寺の境内には、むしろで囲った芝居小屋や見世物小屋があります。「本城 又カリネカヲカ」と書かれた城山には、満開の桜が描かれています。善光寺御開帳が始まった弘化4年(1847)3月10日(旧暦)は、現在の暦では4月24日に当たります。この図は御開帳が始まったころで、城山の桜が満開だったのでしょう。「小市往還」は、小市(長野市安茂里小市)から窪寺(安茂里)を通って、十念寺(西後町)の南で北国街道(中央通り)に出る街道で、絵の下部に左右に描かれている道がそれです。なお上部の欄外には、渡辺敏が書いたと思われる「此絵原図ニ多少増補シタル所アリト思ハルヽヲ以テ之ヲ標ス」という注記があります。この絵は原図に増補した所があると思われる、というのです。左下の妻科社(妻科神社)などが増補された例ですが、『善光寺大地震図会』に掲載された原図と比較して、増補されたものを探してみてください。
1-35
「御囘向盛ニシテ御山内繁昌之畧図」
御開帳でにぎわう善光寺の境内の様子です。右上が山門、左下が仁王門です。現在の仲見世に当たる場所は、奥行きのない平屋の店ばかりで、その裏側にはむしろを張った芝居小屋・見世物小屋などが建ち並んでいます。木戸銭を取っている様子も描かれています。建物等の基本的な配置は現在と変わっていませんが、ぬれ仏(大仏地蔵)と六地蔵との位置が、現在とは逆になっています。日傘をさした女性は何人いるか、天秤棒をかついだ人は何人いるか、などと数えてみるのも楽しいでしょう。
1-36
御開帳中の善光寺本堂前に建つ回向柱です。正面に「ここに錦帳をかかげ宝龕(ほうがん)を開き尊容を拝す」と書いてあって、現在の回向柱とは文が違っています。側面は「経曰」とあるので、経文が書いてあるはずです。また前立本尊と結んだ善の綱がないことが分かります。最も注目すべきは、回向柱に触れようとする人がいないことです。江戸時代の回向柱を描いている貴重な絵です。
1-38~42
御開帳の初日(弘化4年3月10日)に行われた大勧進別当のお練りです。息子乾三にせがまれたので描いた由の記述が本文にあります。別当は1-39の輿に乗っています。本文によれば、この輿は日光輪王寺の門主から拝領したものです。現在の御開帳でも、天台宗の中日庭儀でこの輿が使われています。1-40の上段を見るとこの行列は「常念仏」のちょうちんの下をくぐっています。1-35の境内図によれば、このちょうちんは六地蔵・ぬれ仏の南側にあります。この右奥の現在の城山小学校の位置には常念仏堂がありました。この御開帳は常念仏堂で6万5千日間念仏を唱えた記念に行われたので、大勧進の行列はまず常念仏堂に参拝し、続いて本堂に向かうところなのでしょう。先頭は「光明遍照」「十方世界」の旗が立つ山門前に達しています。
1-46
著者永井善左衛門幸一が御開帳を当て込んで、駒返橋の北に出店した土産物店梅笑堂の図です。1-35の境内図の、ぬれ仏と向かい合っている店です。原本ではそこに「善光寺みやげ」の旗が立っていて、すぐそれと分かりますが、信濃教育会本には旗がなく、店先の様子もあえて梅笑堂ではないように描いてあるようです。
梅笑堂で販売していたのは、1-47に図がある「まさご」という打菓子でした。店先には「まさご」と書かれた2つの壺があります。その上に2枚の看板があり、右には「新製 犀川 まさご」の文字が書かれていて、舟渡しの絵が描かれています。「まさご」は砂のことですから、犀川の砂ということで、丹波島の渡しが描かれているのでしょう。左の看板には「しんせい 梅笑堂出店製」の文字があり、桜の花?に付けられた短冊には「月かげや四門四州(宗)もたゞひとつ」という芭蕉の句が記されています。原本はこれを「四門四州に」と誤っているので、訂正してあるわけです。右側の「善光寺御開帳」と書かれた小旗は、子供用の土産です。
1-47
永井善左衛門幸一が、善光寺御開帳の土産に売り出した打菓子「まさご」の図です。善光寺は東西南北の門にそれぞれ山号寺号があるので、それを菓子の表面に打ち出してあります。松代の菓子職人2人を雇って製造しました。
1-53
善光寺東側の城山の情景です。階段の上にあるのは毘沙門堂で、現在は健御名方富命彦神別神社(水内大社・県社)となっています。石段下右側の建物(現在の蔵春閣の場所)は四宜楼という料亭で、漢詩人大窪詩仏が天保年間に「信州第一楼」という額を掲げました。
1-59
地震の発生時のありさまです。善光寺の本堂前と思われます。永井善左衛門幸一は亥の刻(午後10時)過ぎに本堂に参拝し、表に出たところで大地震に遭遇しました。上部欄外に、「多少原図ト異レリ」という渡辺敏によると思われる書き込みがあります。原本の図よりやや範囲が広くなり、描かれた人物も倍増しています。
1-66
永井善左衛門幸一は出店の梅笑堂に戻りました。これは梅笑堂付近の情景です。六地蔵や石灯籠が激しく倒壊しています。大勧進のお練りの行列が下をくぐり抜けていた「常念仏」のちょうちんが正面にあります。この絵も欄外に、「原図トハ多少異レリ」と記入してあります。1-59図と同様に、こちらも人数が倍増しています。背後の町々はすでに火に包まれ、人々が逃げ惑っています。
1-70
本堂から避難する善光寺本尊の御輿です。一般の人が担ぐ御輿を、2人の寺侍や僧侶たちが先導しています。原本では一人の寺侍が先導するのみです。また左下に描かれた手を合わせて拝む一般の人々の姿も、原本にはありません。絵の上部に「宝永四年亥年八月十三日今の御堂へ入仏ましましてより、今弘化四未年まて百四拾年にして御立退なり」と書いてあります。
1-71
本堂の東側、城山方面から見た善光寺です。避難してきた人々が少しずつ群を作って集まり、夜を明かそうとしています。背後の町々は炎上し、寛慶寺にも火が回ろうとしています。
1-72
「御朱印・御本仏・御印文・前立本尊等之御宝龕御立退守護図」
畑の中に善光寺の本尊、御印文などが避難している様子です。それを取り囲むように、大勢の人々がいます。この位置は、現在の城山公園北側の三峰神社付近です。また周辺でも、高く掲げた幾つものちょうちんの元にそれぞれ人々が集まり、夜を明かそうとしています。それを「此辺ノ田畑ヘ諸人旅人等野宿ス」と説明してあります。永井善左衛門幸一たちも、この中にいました。上部の「本城」は、1-53の城山を北西から見たところです。「本城、又カリネヶ岡、毘沙門・愛染・稲荷アリ」と書かれています。
1-81
大地震で家屋が倒壊して下敷きになり、火災も発生して苦しむ人々を描いています。善光寺地震の悲惨さを伝える、『地震後世俗語之種』を代表する絵です。善光寺地震が起こった弘化4年(1847)3月24日は、善光寺御開帳のさなかであったため、宿坊も門前の旅籠屋も多数の客が宿泊していました。亥の刻(午後10時)ころに発生したため、すでに寝ていた客も多く、大勢の犠牲者を出しました。
1-82
信濃教育会本は左下に欄があるのみで題が記入されていませんが、原本には「善光寺市町焼跡図」と記入されています。また本文中に「廿六七日頃見る図」との記載があります。地震の発生から2、3日が経過した善光寺の門前であることが分かります。左上に善光寺の山門が見えますが、その前はどこまでも焼け野原が続いています。まだあちこちで火がくすぶっており、黒焦げの死骸が散乱しています。余りに悲惨なためか、国立国会図書館本と真田宝物館本は死骸を描いていません。焼跡を歩き回る人々は、肉親や知人の遺体を捜しているのです。手に数珠や花を持っているのは、見つけた遺体を供養するためでしょう。その人々は袖で鼻を覆っています。1-120に「見渡せば茫々たる焼け跡に燃え残りたる死骸・味噌・漬物・雑穀の匂ひ鼻をうがち」とあるように、焼け跡には悪臭が充満しているのです。
1-83
「山中虚空蔵山、又岩倉山抜崩、犀川之大河ヲ止メ、湛水ニ民家浮沈之大畧 下ノ巻ニ委シ」
大地震によって岩倉山(虚空蔵山)が崩落し、犀川を堰き止めている図です。岩倉山は西(右)と東(左)の2方向に崩落し、2か所で犀川を堰き止めました。そのため天然ダムができて、多数の家屋が水没している様が描かれています。2方向の崩落の間に描かれているのは真龍寺(長野市信更町安庭)で、図のように崩落に巻き込まれることなく、無事に残りました。国立国会図書館本と真田宝物館本は画中に地名が多数記入されていて、より説明的な絵になっています。
1-84
「犀川筋小市渡船塲之辺急災除土堤御普請之図」
犀川の堰き止め箇所が決壊して大洪水になることを恐れた松代藩は、小市の渡し(小市橋付近)の辺りに堤防を築いて防ごうとしました。何本もの綱が下がった柱が、渡船場であることを象徴しています。人々は人海戦術で働いています。左奥の幕を巡らせてある場所は、松代藩の役人が出張して来ているのです。せっかくの大工事でしたが、4月13日の決壊の時はまったく無力でした。
1-86
地震の際、善光寺本堂の釣鐘が揺れて落ちたことを図示しています。柱には、「らく書かたく無用」と掲示してあります。江戸時代には本堂の柱や壁に沢山の落書きがありました。また柱には千社札が貼ってあって、「丸徳」「角源」「二十四輩」「大惣」等の文字が読めます。この時、鐘が当たってできた傷は、現在も本堂の南西の柱に残っています。
1-91
「善左エ門家内、本城より権堂田甫に帰る路すがら、廿五日昼巳の尅頃、岩石町裏通りに炎々たる焼亡を見る図畧」
城山で一夜を過ごした善左衛門の家族(家内)は、翌25日の午前中に権堂に帰りました。その途中、午前10時頃に岩石町の裏通りを行く善左衛門一家が、右下に描かれています。先導するのは大工の庄五郎です。善左衛門幸一は持病が出て歩けないので、田町の由蔵に背負われています。ここは鐘鋳川沿いの道です。武井社(武井神社)の背後に虎石庵や稲荷(岩石町の古録稲荷)が見えます。家財を持ち出したものの一家の大黒柱を失って泣く母子、遺体を運ぶ人々など、様々な人間模様が描かれています。その間も火災は燃え広がろうとしています。
1-97
権堂の家に帰った善左衛門一家は、家の中から主な家財を持ち出し、田畑の中に障子や襖(ふすま)で囲った仮屋を作りました。夜になると戌の刻(午後8時)に風が変わり、善左衛門の家も燃えてしまいました。余震が続く中、炎は空を焦がし、風雨が仮屋を襲います。そんな不安な夜にもかかわらず、懸命に生きる人々を描いています。仮屋にはそれぞれ一つずつ、赤い提灯が掲げられています。
1-101・102
善光寺門前町の被災状況を表した地図です。1-101の右下に色見本がありますが、左から、無事の家屋(白)、焼失(赤)、半壊・破損(灰白)、全壊(灰色)、緑地(緑)、川池(水色)、道路(黄)となっています。1-101の欄外に「謄写人ノ増補ニカヽル」とあるように、1-101は原本にはなく、信濃教育会本が独自に増補したものです。また1-102の欄外には、「原図トハ多分ノ差アリ」と書かれています。原図とかなり違っているというのです。原本の図がかなり模式的であったのに対して、信濃教育会本は色分けを明確にし、細かな道路を加えるなどの工夫が見られます。どちらにせよ江戸時代の善光寺門前町の地図としてきわめて貴重です。
1-106
「御本堂ヨリ戌亥ニ、廿四日ヨリ廿八日迄、毎夜天燈ヲ拝ス図」
この図について本文中には特に言及がありませんが、地震があった3月24日から28日にかけて、毎晩善光寺の北西の空に「天燈」(明るい星)が現れたというのです。地震と関連付けて不気味に感じられたにちがいありません。図中には地名が書かれてあり、「大嶺」は善光寺北西の大峰山で、「岩堂」の大岩は謙信物見の岩でしょう。「湯福社」(湯福神社)の脇から「シヲサハ」(塩沢)を通って「アラ安」(荒安)方面に通じる道は、戸隠古道です。
1-109
永井善左衛門幸一の仮屋です。戸板や襖などを組み合わせて縄で結んだだけの、間に合わせの住まいです。雨漏りを防ぐため、屋根には唐傘も広げてあります。奥には高札が何枚も置いてあります。これは名主としてお上から預かったものなので、大切にしているのです。善左衛門の妻糸、娘順、忰(せがれ)乾三のほかに、下女みのと大工の庄五郎の姿が描かれています。庄五郎は職人らしく棒のようなものを口にくわえ、手慣れた手つきで縄を扱っています。仮屋の補修をしているのでしょう。他の4人のけだるそうな様子と、脱ぎ散らかした草履が、この人々の心を表しているかのようです。
1-110
1-109の続きです。善左衛門は羽織のようなものを頭からかぶって、雨をよけながら手を合わせて祈っています。一方で庄五郎の母ムメは、懸命に飯を焚いています。善左衛門の背後のピンと張った綱も印象的です。
1-118
「水災ヲ恐レ、偽言ヲ信ジテ、群人高堤ニ逃去ル図」
地震から2日たった3月26日の朝から、大洪水が押し寄せるという噂が広まり、緊急を知らせる早拍子木が打ち鳴らされて、人々が我先に高台に逃げるという騒ぎがありました。その様子を描いた絵です。この時権堂周辺の人々が避難したのは、本城、長谷越(はせごし)、高土手といった場所でした。本城は現在の城山、長谷越は湯福川と鐘鋳堰が交差する付近、高土手は湯福川の作った自然堤防で、絵の「ウラ田丁」(裏田町・現在の三輪田町)から右に延びる土手です。この騒ぎはすぐに収まりました。4月13日に実際に犀川が決壊した時も、洪水は権堂はじめ善光寺近辺へは押し寄せませんでした。
1-126
地震発生から7日たった4月1日、永井善左衛門幸一は普済寺(田町)の巨竹和尚を導師に迎え、野外に畳を敷いて犠牲者の追善法要を行いました。施主の善左衛門は、右下で合掌しています。息子の乾三も、背後で小さな手を合わせています。背後の仮屋も、屋根を葺くなどだいぶ整ってきたようです。町は完全に焼け野原となり、善左衛門の家の跡も「善左エ門焼跡」と表示されています。しかし人々はすでに復興に向けて動き出しています。