[解説]

寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文
小諸市古文書調査室 斉藤洋一

 千曲川上流域で「戌の満水」の最も大きな被害を受けたのは、佐久上畑村(現佐久穂町)であった。寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四〇軒(八四パーセント)、流失馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば、流失田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。流失をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず流してしまうありさまであった
 では、上畑村はなぜこのような大被害を受けたかというと、同史料によれば、上畑村千曲川(東側)・大石川(南側)・飯塚川(西側。史料には八郡川とも記されている)・沢入川(北側)という四つの川の川端に位置していたが、八月一日夜中から二日の朝まで降った雨で四つの川が大満水となり、「村前後左右より水(が上畑村へ)押しかけ」たからであった(これによれば、洪水は八月二日に起こったことになる)。この上畑村の位置は、現在の福祉センターのあたりと考えられている。
 これによって家や家財を流され、田畑を流されてしまった村民が、村の再興のために領主へ資金援助や河川の護岸工事の実施を願ったのが、この史料である。上畑村は当時、七〇〇〇石の旗本水野惣兵衛忠穀領であったが(役所は高野町にあった)、願書のなかで「殿様(旗本)御ちから(力)」には及びがたい大破なので幕府が救助に乗り出してほしいという意向を示しているところにも、この被害の大きさ(「一村亡所」)がうかがわれる。
 寛保二年九月の「上畑村水災につき当立毛御見捨願」は、右のような大被害を受け、わずかな田地が残っただけなので、今年の年貢は免除してほしいと、村から領主へ願ったものである。年貢などとても納められる状態ではなかったことがうかがわれる。
 寛保二年一〇月の「上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文」は、右のような大被害を受けた上、今後も同様の被害を受けかねないと考えた村民が、村の移転を決めた際の取極証文である。移転場所は中畑村に近い、被災地より標高が高く、山よりの場所とした。現在の佐久穂町上畑で、国道一四一号線の西側になる。上畑村は信州佐久地方と甲州を結ぶ甲州道上に存在した村だったので、移転先へも甲州道(往還道)を通すことにした。その際、誰の田畑へ往還道が設定されても文句は言わないと約束したのが、この証文である。
 移転から三〇年余り後の安永七年(一七七五)、上畑村の人々は「戌の満水」によって流されてしまった自福寺を再建した。そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に流死者などの供養塔を建てた。その後も境内には、年忌ごとに供養塔などが建てられている。また本堂には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。上畑では現在も住民による「戌の満水」による被災者の供養が続けられている。