[現代訳]

 安曇・筑摩両郡旧俗伝
信府統記」第十七
筑摩・安曇両郡旧俗伝
一、わが信濃の国のなかで、昔から今日に至るまで、その事跡を見聞したことは、この「信府統記」の「郡境諸城の記」などに載せたが、大昔の歴史は、そのいわれがはっきりしないこともあり、きちんと書くことはむずかしい、そのため、しばし筆をとることをやめたが、ここにまた筑摩(つかま)・安曇(あずみ)の両郡において、昔から伝わる風俗や習慣の記録が少なくない、それらの話は詳細がわからないことも多いが、
 
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これらもまた、遠く過ぎ去った時代のことを考えて、現在を知る一端なので、捨て置けない、それゆえに別に集めて一巻とした次第である、まさに、信じて昔を好むの意味にちかいだろう、
 
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一、大昔、郡の名も定まらず、ましてや郷村もまだ開けていなかった頃、たまたまあった人家は山にだけ住んでいた、そのころにはこの地を有明(ありあけ)の里といった、有明山(ありあけやま、標高二二六八メートル)という大きな山の麓だったからその名がついた、有明山は、今(江戸時代中頃)の松川組(まつかわぐみ、松本安曇郡のうち)である、有明山の名を「戸放カ嶽」ともいう、詳しくいえば、大昔、日の神(ひのかみ、天照大神、あまてらすおおみかみ)が岩戸(いわと、天の岩屋戸)に籠ったとき、天地が真っ暗闇になってしまったので、手力雄命(「日本書紀」では天手力雄神、あめのたぢからをのかみ)が岩戸を取り上げて投げたところ、この岩戸がこの有明の場所に落下した、それから天下が明るくなったので、この山を有明山とも、戸放カ嶽ともいうのである、
 
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また、鳥放カ嶽ともいう、詳しくいえば、この山に鶏に似た鳥がいて、時を作るからとか、また別の説によれば、この山は月の頃(満月の日の前後数日)には陰もなく照らすために有明山ともいうと書かれている、人皇(じんこう、天皇)十二代の景行天皇(けいこうてんのう、「古事記」「日本書紀」にある十二代天皇)の十二年までは、このあたりの平地はみな山々の沢から落ちる水が集まって湖であった、ここに犀竜(さいりゅう)がいた、また、ここから東の高梨(たかなし)という所に、白竜王(はくりゅうおう)とい者がいて、犀竜と交合して一人の子を産んだ、その子は八峯瀬山(はちぶせやま、鉢伏山、標高一九二八メートル)で誕生し、日光泉小太郎といった、放光寺山(ほうこうじやま、松本市)のあたりで
 
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成長した、その後、母の犀竜は自分の姿を恥じて、湖水の中に入って身を隠した、小太郎が母の行方をさがしていたところ、熊倉(くまくら)下田(しもだ、松本市島内)の奥にある尾入沢という所で母とあうことができた、母の犀竜が話して言うには、私は諏訪大明神の武南方富の命(たけみなかたのかみ、建御名方神)の変身である、氏子たちを繁昌させようとしてこのように姿をかえたのだ、小太郎よ、私の背に乗りなさい、この湖を突き破って水を下流に落して平らな陸地として人の住める里としようと教えられるにまかせて、小太郎は尾入沢で犀竜に乗ったので、この地を今は乗沢(さいのりざわ)という三清地(さんせいじ、山清路、東筑摩郡生坂村)という所の大きな岩を突き破り、
 
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また、水内(みのち)の橋下を突き破り、千曲川(ちくまがわ)を流れくだり越後国(えちごのくに、新潟県)の大海(日本)まで乗り込んでいった、これによってその場所を「乗タリ」(のったり)というとか、乗沢から千曲川へ合流する場所までを川(さいがわ)という、その後、犀竜白竜王を尋ね、坂木(さかき)の横吹という所の岩穴に入り、小太郎は有明の里に帰った、今の池田組(松本安曇郡)十日市場の川会(かわい)という所に住んで、子孫は繁昌した、何年かたって白竜王犀竜はともに川会に来て対面した、白竜王のいうことには、私は
 
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日輪(にちりん、太陽)の精霊(せいれい)、すなわち大日如来(だいにちにょらい)の化身(けしん、生まれ変わり)であり、犀竜とともに今は松川組の一本木村(大町市)の西の山にある仏崎(ほとけざき)という所の岩穴に入って隠れていた、それから何年か経ってのちに、小太郎のいうことには、私は八峯瀬権現(はちぶせごんげん)の再誕(さいたん、うまれかわりなり)である、この里の繁栄をまもろうとしてまた仏崎の岩穴に隠れた、後になってその場所に川会大明神の社を建てたのは、この霊神を祀ったのだという、今はこの社はない、湖の水が流れ出て平らな陸地となってから、田を開き、人びとが住んで暮らすようになり、しだいに郷村ができていった、湖水がいっぱいだった時には、山から山へ船で往来したため、山家組(やまべぐみ、松本筑摩郡)に船付(松本市入山辺)という所がある、同じく船を繋ぎとめておく石などもある、一説によれば、信濃の国の十二郡の
 
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中でも筑摩と安曇ノの両郡ははてしなく広い海原(うなばら)だった、中山の崎から湖が入るので塩崎といい、その潮は伊奈(伊那)郡へ流れる、塩尻(しおじり、塩尻市)の名もここからはじまった、深瀬(ふかせ)というの、その湖の中にある川筋の深い瀬のある所とか、また、山家(やまべ、山辺松本市入山辺、里山辺)の名は、皆が山の上に住んでいるからついた名である、ここに船を寄せたので今に船着(ふなつき)と言い伝わり、船を緊いだ石も今にもある、釣り生業として暮らしている、諸神(しょしん、もろもろの神々)は憐れんでいる、なかでも、鉢伏(はちぶせ)、今は八峯瀬山という山の権現が人輪(じんりん、人間)として現れて、傍らの丸山に
 
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住むようになった、そこに不思儀な泉が涌き出る、その味は酒のようで、人びとの飢えを助け、疲を養っている、まさに不老不死の泉ともいうほどで、その地の人びとは大変喜んでいる、この権現の子を泉小次郎という、生まれながらに普通の人ではなかった、岩壁を駆け巡り、水中に入っても自由自在で、この地を平らな陸地にするために海中に入って点検したところ、一つの山を突き破れば必ず水が流れ下って丘となるだろう、しかしそれは人間の力ではできないことなので、天神地祇に祈っていたところ、
 
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大雨が降って水があふれんばかりになり、山の上をこえるほどに水があふれた、その時が一疋出現した、小次郎はこのに乗って、山を突き破った、よその地域の古くからの巨霊といわれた山も突き破ったこともあるから、かんたんなことだ、に乗って水は広い世界へ流れ出ていった、このを神に祝い、今の出川町(いでがわまち、松本市)のあたりにある口水引大明神がこれである。ここのあふれんばかりの海水は、越後へ流れ落ちて平らな陸地となった、中房山(なかぶさやま)に鬼神があり、里に出てきて人々を悩ましたので、諸々の神が力を合わして、その鬼を
 
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滅ぼしたし、鬼神は魔道王といった、今の島立(しまだち、松本市島立)の鬼場という所は、この鬼神のたむろしていた地である、征矢野(そやの、松本市)の野々宮で、古廐原で首の調べのあった場所に、鬼賊の渠魁の魔道王を始め、その首が百三十六、そのほか、邪賊は数えきれないほどだ、討ち取った首は塚に埋めた、これを耳塚という、この百三十六の首だけは、今の筑摩の社壇より未申(ひつじさる、南西の方角)の方へ三十六間(約六五メートル)離れた場所に埋めて塚を築いた、その塚の形は、
 
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飯を盛ったのに似ているので、今は飯塚という、この時に人々の旌を神躰として宮殿を作った、筑魔の神社がこれである、そのを納めた場所に竹が生えている、これを野竹といって、昔は弓にも成ったと言い伝えられている、千早振神の居垣に弓を張って、向うの矢先に悪魔がいたのはこの場所といい、そのときは竹魔といった、これは、筑摩(つかま)八幡宮の社人が伝えてきたことだ、