天正十三年(一五八五)閏八月、上田城は遠江(静岡県)からの徳川本隊と甲斐・信濃の徳川方からの攻撃を受けた。真田勢二千ほどに対し、徳川勢は七千余であったという。しかし、真田方は寡兵よくこれを退けた。昌幸の長男信幸は沼田方面の家臣に出した書状で、その戦果を簡潔に知らせている(6)。遠州(徳川)勢と国分寺(上田市)で一戦を遂げ、敵を千三百余討ち取ったとしている。なお、上田(神川)合戦の際の上杉勢の具体的な動きについては、景勝自身の出馬は長沼(長野市)までであり、「惣人数五千余、真田館際に陣取る」と見えるだけで、実際の戦闘に参加した模様はうかがえない。
いずれにせよ、徳川軍はこれで真田討伐をあきらめたわけではなく、佐久郡にあって再攻の機会をうかがっていた。九月には井伊直政・大須賀康高・鳥居元忠・平岩親吉が連署して、軍勢の乱妨を禁ずる「禁制」を出している。そのような情勢下で上田城の普請が多くの上杉方の将士を動員して行われている。築城工事は天正十一年に始められていた。しかし、まだ完成はみていなかったか、増築工事が改めて行われていたのだろう。その工事も九月末の時点では完工が間もない様子であった。北信濃の武将島津忠直等より景勝の重臣直江兼続に宛てた書状には「伊勢崎御普請、寸隙も油断を存ぜず、これを致し候、近日成就仕るべく候」とある。「伊勢崎城」とは、当初の上田城の呼び名で、江戸時代もその異称として使われている。ここで「御普請」とあるように、この時点での上田城普請は、上杉氏の城郭普請として行われていた。つまり、上田城は、単なる真田氏の居城としてではなく、当初は徳川方の対上杉の最前線の城郭として、真田が上杉方に鞍替えした後は、徳川勢力に対抗する上杉方の最前線の拠点城郭として、かなり大規模な工事が行われたのであった。
<史料解説>
天正十三年(一五八五)閏八月十三日
真田昌幸の長男源三郎信幸が沼田周辺の家臣宛てに出した書状。閏八月二日、国分寺村(上田市)において遠州から出張してきた徳川軍と一戦を遂げ、千三百余人を討ち取った、と勝利を知らせるとともに、南衆(北条勢)が沼田攻めにかかるのは必至なので、それに備えるよう指示している。真田方は徳川勢を上田城までおびき寄せてから猛反撃に移り、城下の街路に仕柵けてあった千鳥柵けの柵などにより混乱しながら敗走する徳川勢を追撃、国分寺・神川の辺で大いに攻め破ったと伝える。このため、この戦いは神川(かんがわ)合戦とも呼ばれる。なお、これに見える信幸の花押は上杉景勝初期の花押に大変よく似ている。この戦い直前に従属した景勝のそれにならったものだろう。真田氏の上杉氏にかける必死の思いの一端がうかがえる。