この間の真田氏の動きを知る史料としては、まず慶長四年閏三月二十五日の信幸宛て徳川秀忠返書が上げられる。これによると、家康が伏見の自邸から伏見城へ移ったことを信幸が江戸の秀忠に報じていた。これより、まず信幸も伏見にいたことが分かる。そして、何よりもこれで注目されることは、この書状が真田氏宛での秀忠書状としては初めてのものであり、徳川氏よりの書状としても、天正十八年の名胡桃城事件の際の家康返書以来のものということだろう。信幸が秀忠に家康の動静をわざわざ知らせていた事実と合わせ、勢威ますます盛んな徳川への、明らかな接近の様子をうかがわせる。
これに続いては慶長五年三月の信幸宛て昌幸書状がある(写真)。これでは昌幸は帰国中に煩っていた模様であった信幸の病状を問うとともに、伏見の様子を知らせている。家康が伏見城から大坂城へ移ったのは前年九月だった。このため「大名小名ことごとく伏見の衆大坂へ」転居しようとしており、自分も近く移るべく用意をしている、支給された屋敷は信幸と幸村(信繁)が並びで、留守中でもある信幸用にはよい方を受け取ってある、と伝えている。この屋敷とは慶長四年に築造がなったという大坂城三の丸の一画なのだろう。真田父子を含む伏見に詰めていた多くの大名たちが、このころ一斉に家康のいる大坂へ移居しようとしていた様子がよくうかがえる。このような状況下で、真田父子も家康の上杉討伐令に応じたのであった。
<史料解説>
慶長五年(一六〇〇)三月十三日
伏見城下に詰めていた昌幸より、帰国中の信幸に宛てた書状。煩っていた信幸の様子を尋ねるとともに、伏見の情況を知らせている。家康の移った大坂城下へ移転しようとしていた様子など、関ケ原合戦につながる上杉氏征討の軍が起こされる直前の、真田昌幸・信幸・幸村の動静の一端がうかがえる興味深い史料である。
<訓読>
尚々其れ以来御煩如何に候哉。御心元無く候。油断無く御養性(生)肝要に候。伏見の衆悉く大坂へ近々相移らるる用意迄に候。其の外別儀無く候。相替る儀候はば、急度申し達すべく候。以上。
急度(きっと)申し入れ候。其れ以来御機合如何候哉。心元無く存じ候。申すに及ばず候へ共、せつかく御養性(生)肝要に候。此方(こなた)別儀無く候。御心安かるべく候。将又(はたまた)先日申し入れ候如く、其の方屋敷の事、場所然るべき所候間、此の以前請取り候屋敷に引替へ置き申し候。左衛門佐(幸村)屋敷、其の方並びにて候。二間(軒)の内一間地形低く候て手間入り申し候。其の方事は留守と申し、よき所を請取り候はでかなはぬ由に存じ、手間入り候屋敷は左衛門佐かたへ相渡し候。然れば内府様(家康)大坂に御座成され候に付いて、大名・小名悉く伏見の衆大坂へ引き移られ候。我等も近日相移るべく仕度せしめ候。替る儀候はば追々申し入るべく候。恐々謹言。
三月十三日 昌幸(花押)
伊豆守殿参 安房守