多色刷りの浮世絵版画を錦絵という。錦絵は江戸中期以来、大衆的な美術品として盛んに作られた。世界に誇れる日本の庶民文化の一つとして知られる。ここに取り上げた錦絵は何れも真田氏が描かれた幕末から明治にかけてのものである。
真田氏は信繁(幸村)の父昌幸が自ら築いた上田城に拠って、二度にわたり徳川の大軍を破っている。しかし、その事実も相まってのこととは言え、何といっても真田といえば幸村という名での信繁の知名度が突出している。信繁は大坂の陣で「真田日本一の兵(つわもの)」と敵将からも賞賛されるような奮戦振りにより、名を後世に残した。そして軍記物や講談の世界で超人的な働きを見せるようになる。
その人気は明治末から大正期に出版された立川文庫の猿飛佐助ら真田十勇士の活躍により最高潮に達する。ここに見られる錦絵は、どれもそれ以前のものだが、やはり大半は幸村(信繁)を主題としている。いずれにせよ幸村の活躍場面の多くは、もちろん創作された話であり史実ではない。しかし、これらは江戸時代から続く幸村人気の高さを語って余すところがない。
<史料解説>
「武田二十四将図」 一孟斎(歌川)芳虎(?~一八八〇)画 上田市立博物館蔵
武田信玄とその有力武将を描いた武田二十四将図の類。ここには信玄と勝頼を含め二十六人が上げられている。そのメンバーは、いつの時期にするかでも替わってくるが、これは信玄初期の家臣団を中心にした模様で、真田氏では「弾正忠行(幸)隆」が見える(左下)。幸隆は昌幸の父で、信幸・幸村兄弟の祖父にあたる。芳虎は幕末から明治初期に活躍した。
<史料解説>
「大坂篭城真田幸村勇戦之図」 孟斎(歌川)芳虎(?~一八八〇)画 上田市立博物館蔵
慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣における、幸村の有名な奮戦振りを描いてある。中央馬上が幸村。その右にやはり馬上の長男大助。「穴山小助」「三好青海入道」など後に真田十勇士の一員となる名も見える。芳虎は天保年間(一八三〇年代)より明治初期に活躍。国芳の門人で武者絵を得意とした。明治元年の錦絵師番付では貞秀に次いで二位。
<史料解説>
「大坂平野合戦真田幸村地雷火をもって関東の大軍を破る」 孟斎(歌川)芳虎(?~一八八〇)画 上田市立博物館蔵
右に真田幸村、中央に後藤又兵衛、左に六文銭の陣羽織の真田大助。徳川方の陣地に仕掛けたという「地雷火」による戦果を遠望している。やはり大坂の陣における幸村らの活躍ぶりを描いたもの。芳虎は幕末期を中心に、武者絵を得意として絵筆をふるった。当時の最も活動的な絵師の一人。
<史料解説>
「幸村、巡見中の家康を追い詰める」 大蘇(月岡)芳年(一八三九~一八九二)画 上田市立博物館蔵
大坂冬の陣で家康をあと一歩まで追い詰めたという場面。真田幸村勢の襲撃を受け、葭原に大久保彦左衛門とともに身を隠す徳川家康。葭の中に槍を突き入れて捜す幸村。改印より明治六年(一八七三)の作品と分かる。大蘇(月岡)芳年は歌川国芳の門人。号は大蘇のほか一魁斎など。明治に入って近代的な感覚を盛り込んだ歴史画に本領を発揮した。明治十八年の浮世絵師番付では一位。特に欧米では評価が高い作家である。
<史料解説>
「幸村芦叢へ忍ぶ図」 尾形月耕(一八五八~一九二〇)画 上田市立博物館蔵
大坂の陣の一場面。幸村が芦叢より家康を狙撃しようとしたというシーン。明治十年(一八七七)の作品。月耕は師系はなく独学で谷文晁などの画風を学ぶ。明治期に征韓論、月耕漫画、日清戦争画などの錦絵を描いたほか、小説や新聞挿絵なども多い。
<史料解説>
「家康大仁村難戦之図」 楊斎延一(一八七二~一九四四)画 上田市立博物館蔵
大坂夏の陣に際して、真田幸村が徳川家康を追撃しているという場面。延一は楊洲周延の門人。明治二十~三十年代に活動。日清戦争画で名を上げた。これは明治二十六年の版。