[注記]

(注記 1.木曽ノ天然)
 (注1-1)広袤(こうぼう):広さ。広は東西、袤は南北をさす。
 (注1-2)華氏27、8度:摂氏に換算すると-2、3度くらい
 (注1-3)華氏73、4:摂氏に換算すると23度くらい
 (注1-4)中山道:江戸時代の五街道のひとつ。江戸中期までは中仙道と書いていたが、その後は東海道に対して中山道と書くようになった。
 (注1-5)長亭短駅(ちょうていたんえき):亭も短も宿場をあらわす語。宿場と宿場の間が長いところも短いところもあるという意
 (注1-6)保守退嬰(ほしゅたいえい):進んで新しいことに取り組もうとする態度のないこと。
 (注1-7)因循姑息(いんじゅんこそく):古いならわしや方法にこだわり、一時のがれをすること。
 
(注記 2.木曽歴史)
 (注2-1)和銅(わどう)6年:西暦では713年
 (注2-2)大宝(たいほう)2年:西暦では702年
 (注2-3)貞観(じょうがん)中:西暦859年~877年
 (注2-4)元慶(がんぎょう)3年:西暦では880年
 (注2-5)治承(じしょう)4年:西暦1180年
 (注2-6)天正(てんしょう)10年:西暦1582年
 (注2-7)慶長(けいちょう)5年:西暦1600年
 (注2-8)元和(げんな)元年:西暦1615年
 (注2-9)慶雲(きょううん)3年:西暦706年
 (注2-10)正平(しょうへい)年間:1346~1369(南北朝時代)
 (注2-11)神官:ここは文脈からみて、神官(しんかん)ではなく神宮(じんぐう)であろう。織田信長が伊勢神宮御造営材を木曽から伐出したという記録がある。(『日本の森と木と人の歴史』日本林業調査会)
 (注2-12)五木:ふつう木曽五木という。檜(ヒノキ)・椹(サワラ)・ネズコ(クロベ)・槇(コウヤマキ)・明檜(アスヒ=アスナロ(ヒバ))の5種をさす。江戸時代中期に尾張藩によって、材木資源保護のために伐採が禁止された。なお、ネズコは漢字ではあて字で「鼠子」と書いたりするが、原本ではJISコード表にはない「木」偏に「獵」(りょう)という字の傍(つくり)を組み合わせた字が使われている。、
 (注2-13)宝永年中:西暦1704年~1711年
 (注2-14)105,000町歩:ヘクタールに換算すると、約104,000ha
 
(注記 3.木曽産業)
 (注3-1)114方里:約1,758k㎡(1平方里は約15.4k㎡)
 (注3-2)人口密度:本文では人口密度は1方里あたり71.8人となっているが、人口を面積でわると47,211÷114=414.1人となって、あわない。
 (注3-3)白鳥貯木場(しろとりちょぼくじょう):名古屋市熱田区の堀川沿いにあった中貯木場。起源は1610年名古屋城築城のときという。1615年から尾張藩の管轄になり、木曽川を筏に組んで流送されてきた木曽材が、いったん伊勢湾に出てから堀川を上って集積された。1911年(明治44年)中央西線から名古屋港線を経由して陸路で白鳥貯木場に輸送できるようになり、御料林の木材も本文にあるように大量に運ばれた。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で甚大な被害が出てからこの貯木場は次第に移転・縮小され、現在は記念碑だけがある。
 (注3-4)尺締(しゃくじめ):日本在来の単位で、1尺締=12立方尺=0.3339㎡。40万尺締は約134,000㎡となる。「尺〆」と書くことが多い。
 (注3-5)種(さんしゅ):(カイコ)の卵のこと。紙と呼ばれる紙の上に卵を産み付けさせ、その紙を取引の対象とした。
 (注3-6)生皮苧(きびそ):生糸を繰るときに出る糸くずを集め、乾燥させたもの。絹糸紡績の原料。
 (注3-7)御毛付(おけつけ):当才駒(主にその年生まれの雄)の毛、寸尺等を馬籍に記入すること。毛付改めとも言った。
 (注3-8)紙盆類(かみぼんるい):農家がおこなう養の工程の中で、孵化したカイコが5齢の終わり頃になると、クワを食べるのをやめ熟(ヒキリという)となる。このヒキリを手早く拾って繭をつくる巣の中に入れるとき、和紙を重ねて作った軽い紙の盆を用いる。これが紙盆で、木曽では南木曽町の田立で作られた。
 (注3-9)内帑金(うちどきん):天皇とか君主が手もとに所持する金。このときの御下賜金下付哀願運動については、小説『夜明け前』の作者・島崎藤村の兄である島崎広助がリーダーとなって交渉にあたった。
 
(注記 4.中等程度の林業教育の現状)
 (注4-1)ここでは山林学校と書かれているが、正確には全国各地の農林学校に設置された林科あるいは林業科のことである。ちなみに山林学校という名称は、この時点では木曾林学校のみである。
 (注4-2)ここで僅かに1校と書かれているのが、木曾林学校である。
 (注4-3)この2校は、奈良の奈良県立農林学校(後の吉野林業高校)と大分の県立農林学校(後の日田林工高校)である。
 
(注記 6.本校の沿革)
 (注6-1)明治34年:西暦1901年
 (注6-2)82町3反6畝10歩:メートル法では約81.7ha
 
(注記 8.学則)
 (注8-1)丁年(ていねん):一人前の年齢、満20歳以上。
 (注8-2)廉恥(れんち):心が正しく不正をはずかしく思うこと。恥を知る。
 
(注記 9.各学科教授の内容)
 (注9-1)分蘖(ぶんげつ):などの根に近い茎の関節から枝分かれすること。林業では、切り株から出た芽(ひこばえ)をいう。
 (注9-2)龍脳(りゅうのう):ボルネオールのこと。香気は樟脳に似て強い香りがあるが、揮発性は乏しい。高価。
 
(注記 11.実習)
 (注11-1)実習組織:ここでは実習組織として、共同・組合・個人の3形態があげられているが、このうち組合というのはなれない用語であるが、現代の表現でいえばグループとか班ということである。苗圃の実習でよくこの形態が使われた。
 (注11-2)柞(さくさん):ヤママユガ科のガを用いて、カイコと同じように糸をつくるもの。野の一種。幼虫の食草はクリ・クヌギ・カシなどで、クヌギ林で飼育される。中国原産。
 (注11-3)天(てんさん):ヤママユガ科のヤママユと呼ばれる幼虫を用いて糸をつくるもの。かつては全国の山野に自然の状態で生育していた
 
(注記 12.本校の実習に対する便宜)
 (注12-1)作業種(さぎょうしゅ):林業経営においては、一定の指導方針のもとに長期にわたって森林生産をおこなうが、その生産方式を作業種という。ここでは、皆伐作業と択伐作業という言葉がでてくるが、簡単には以下の通り。
 ・皆伐作業:あるひとまとまりの林木(これを林分という)を、1回に全部伐採し、その跡地に主として人工造林(植林)によって新しい林分を造成する作業法。
 ・択伐作業:択伐というのは、あるひとまとまりの林分において、その林木構成に著しい変化を与えないように、何年かおきに一部の木(ふつうは伐期に達した木)を伐採していく作業法で、皆伐のように短期的にせよ裸地が出現することはない。
 (注12-2)喬林(きょうりん):高い木からなる林で、現在は高林という言い方が一般的。喬林に対応する言葉は矮林(わいりん)または低林である。
 
(注記 14.生徒心得)
 (注14-1)控所(ひかえしょ):原本では「扣所」となっているが、現代表記の「控」を用いた。なお、明治40年発行の同校の学校一覧では「控所」となっている。
 (注14-2)質索裨(ばくしつさくひ):ワラに布をおぎなってひも状にしたもの。これを材料にして夏帽を編んだのであろう。一般的には稈(ワラ)を材料とする。
 (注14-3)知靴:この言葉は意味不明で、知靴は短靴の間違いか。
 
(注記 15.寄宿舎)
 (注15-1)骨牌(カルタ):「カルタ」と読むと、百人一首・いろはガルタ・花札・トランプなどをいう。また、「こっぱい」と読むと麻牌を指す。