17世紀~1912年(年代記第1部)

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1189年~
1189年(文治5年)13~14世紀ころ1550年(天文19年)17世紀中ころ1644年(正保元年)
1669年(寛文9年)18世紀中ころ(宝暦年間)
1800年~
1808年(文化5年)1810年ころ(文化年間)1868年(明治元年)1869年(明治2年)1870年(明治3年)
1871年(明治4年)1873年(明治6年)1874年(明治7年)1876年(明治9年)1877年(明治10年)
1878年(明治11年)1880年(明治13年)1881年(明治14年)1886年(明治19年)1887年(明治20年)
1893年(明治26年)1897年(明治30年)1899年(明治32年)
1900年~
1901年(明治34年)1904年(明治37年)1906年(明治39年)1909年(明治42年)1910年(明治43年)


1189年(文治5年)
奥州藤原氏、源頼朝に滅ぼされ、残党は「蝦夷島」へ
義経秘宝」の伝説はここからか
恵庭には、ラルマナイ川上流のの沢山中に義経の家臣が財宝を埋めたというロマンあふれる伝説があります。伝説の事実関係はともかく、歴史上ではこの年、源頼朝の圧力に屈した奥州藤原氏の当主・藤原泰衡が、頼朝に追われ平泉に亡命中の源義経を衣川に討っています。しかし頼朝は奥州攻めをやめず、藤原泰衡は「蝦夷島」への逃走中に討たれ、栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡しました。松前藩時代の文書『福山旧事記』には、藤原氏の残党が多く「蝦夷島」に逃れたとあり、彼らは渡党とよばれるエゾの一部になっていったと考えられています。義経財宝伝説の背景にはこのような事件がありました。

 
◆ラルマナイ川の白扇の滝。この上流に義経の埋蔵金伝説がある

衣川で討たれたはずの義経が、実は生きてエゾ地にわたり、アイヌに文化をもたらしたオキクルミ神になったという伝説もありますが、それは後の松前藩によって政治的に広められたものと考えられます。しかしさまざまな義経伝説の裏側には、藤原氏残党の渡来のように、鎌倉幕府成立のころから東北北部・北海道で人とモノの移動が進み、そのことが擦文文化を変化させ、アイヌ文化を成立させていったという歴史もひそんでいるようです。
 

13~14世紀ころ
擦文時代が終わり、アイヌ文化期が始まる
このころ交易による本州からの産物の流入というインパクトが、北海道の擦文文化を変化させますが、一般的には、ここから江戸時代末期までをアイヌ文化期とよんでいます。しかし擦文文化と江戸時代の近世アイヌ文化を結ぶ時期をどうとらえるか、また続縄文文化人・擦文文化人・オホーツク文化人と近世アイヌ民族の関係、エミシ・中世エゾとアイヌ民族の関係をどうとらえるかは、まだよくわかっておらず、研究者によってさまざまな考えが出され、論争があります。

いずれにせよこの時期、擦文土器に代わったものは、本州からの鉄鍋(内耳鉄鍋といい内側に耳がある)や陶器でした。この時期、人々は竪穴式の住居をやめ、チセとよばれる住居に住むようになります。住居には炉があり、内耳鉄鍋は炉の上につり下げるためのものでした。
内耳鉄鍋(恵庭市郷土資料館)
◆市内から出土したアイヌ文化期の刀剣(恵庭市郷土資料館)

アイヌ文化期には、アイヌ民族の精神文化としてユーカラとよばれる口伝えの詞曲が生まれていきます。またチャシとよばれる砦(柵で囲われるなどして、軍事的な意昧だけでなく、指導者の住居や祭場などに使われたとも考えられている)も作られます。ユーカラやチャシがいつころ成立したのかは、まだよくわかっていません。チャシは、Chi(我々)ashi (立てる)というアイヌ語からきたという説とサシという朝鮮語からきたという説があります。恵庭には、茂漁と島松沢の二カ所にチャシの跡がありますが、いつどのような目的で作られたのかは不明です。漁川のイザリアイヌ語のイチャン(サケの産卵場)からきていますが、チャシの立地とイチャンを関係づける研究もあります。
◆茂漁チャシ

◆大正の頃の島松沢チャシ跡(写真提供/曽根原武保)


1550年(天文19年)
エゾ一〇〇年戦争、安東氏の調停で終わる。
これを基礎に松前藩が生まれる
『諏訪大明神絵詞』(一三五六・廷文元年)には、エゾには日の本・唐子・渡党の三種があると記されています。一説では、日の本は太平洋岸から千島のアイヌ勢力、唐子は日本海側からサハリンにかけてのアイヌ勢力、渡党は道南の和人化していく勢力と考えられています。渡党勢力は、かつて「蝦夷管領」として十三湊(とさみなと)に拠点を置いた安藤氏と、その流れをくみ「日の本将軍」と称した安東氏(後の秋田氏)の配下として一五世紀には道南に十二の館を築き、勢力を拡張していきました。しかし一四五六年(康生二)、渡党と他の二勢力との間で大規模な戦乱が始まり、翌年のコシャマインをはじめ、タナサカシの蜂起、タリコナの蜂起、さらには館主同士の戦闘など、百年近い戦乱が続くことになります。

◆蝦夷船による渡海図(市立函館図書館)

この戦争のなかで力を蓄え、渡党勢力の長となっていったのが武田信広を祖とする蠣崎氏で、一六〇〇年前後には豊臣・徳川氏の直家臣となり安東氏から完全に独立し、松前藩が誕生していきます。
◆武田信広の肖像(市立函館図書館)


17世紀中ころ
イザリブトシママップに鷹をとる「鳥屋場」できる。
両場所このころ成立か?
近世に入ると、松前藩はエゾ地での交易を独占します。米がとれない「無高の藩」だった松前藩は交易を藩の基盤とし、家臣には交易権を知行として分け与えました。家臣は与えられた「商場」に商船を送り、そこでアイヌと交易をおこなう仕組みとなり、それまで自由に交易をしていたアイヌの主体性は次第に失われ、略奪的なものへと変わっていきました。これを「商場知行制」といいます。

恵庭には、イシカリ十三場所のひとつシママップ場所(シュマ満布・シママップ・嶋まつふ)とシコツ十六場所のひとつイザリ場所(イザリブト・イチヤリ・伊茶利布登)があったことが知られています(イザリ場所は後にイザリ場所とモイザリ場所に分かれる)。これらの場所がいつ成立したかはわかっていません。しかし「多くの場所は一七世紀の初に設立」(高倉新一郎)したとされ、イシカリ場所・シコツ場所は一七世紀前半には開かれていたと考えられています。また恵庭をふくむ石狩低地帯は、初期の松前藩の代表的交易品だった鷹の主要産地であり、一七世紀ごろの寛文年間までに、多くの「鳥屋場(鷹を捕まえる場所)」が作られていることから、一七世紀後半には「鳥屋場」の名でイザリシママップの二つの場所が成立していたと考えられます。
その後一八世紀前半の享保年間になると、商場を商人にまかせることが一般的になりました。これを場所請負制といいます。場所請負制のもとで「場所」は次第に交易の場から漁業など生産の場へと変化し、場所請負人がアイヌを労働力として悪条件で酷使することが横行し、一七八九年(寛政元)のクナシリ・メナシ蜂起の原因ともなりました。
◆場所における交易の様子(市立函館図書館)


1644年(正保元年)
松前藩「正保御国絵図」製作。
イザリシママップの地名は現れたか?
イザリシママップの地名が、和人が知る以前からアイヌ語として語られてきたことはいうまでもありません。では最初に記録として現れるのはいつころでしょう。一六四四年(正保元)幕府は諸大名に国絵図を提出させます。このとき松前藩が制作した『正保御国絵図』は残念ながら現存していませんが、しかしこの正保の地図を複写したとされる地図が何種類か残っています。天和年間(一六八〇年代)に描かれたと思われる『松前蝦夷図』(函館図書館所蔵)もそのひとつで、しかも他の図と比べて省略が少なく原本に最も近い(高倉新一郎氏による)とされています。実は、この図にはイザリシママップの地名がありません。

 
松前蝦夷図(市立函館図書館)

しかし、この『松前蝦夷図』には、イシカリからシコツに抜けるルートが描かれており、一六七〇年(寛文一〇)の『津軽一統志』の調査記録にも「いへちまた(現在の江別市付近)よりしこつ ゆうはりのぬまへ小船にて往来」とあり、十七世紀の後半には、本市付近がよく知られていたことは間違いありません。
文書の記録としては、一七〇〇年(元禄一三)『元禄御国絵図』(現存せず、写が残っている)とともに幕府に提出された『松前島郷帳』にいちやり・島まつふの地名が見え、同年の「松前藩家臣支配所持名前」に「伊茶利布登鳥屋」「シユマ満布鳥屋」の名が見えるのが、今のところ現存する最古の記録のようです。
 
◆元禄御国絵図写(北海道大学附属図書館)


1669年(寛文9年)
シャクシャイン蜂起する
オニビシとシャクシャインの争いを発端に、松前藩へのレジスタンス戦争ヘ
サハリンや千島列島まで勢力を広げ、中国や日本との交易で力を蓄えていったアイヌ民族は、交易を中心として次第に地域的な統一を進め、一説では寛文期に内浦アイヌ・余市アイヌ・石狩アイヌ・シュムクル(ハエクル)・メナシクルの五つの地域集団があったとされています。イザリブトは、オニビシを指導者とするシユムクルの勢力圏でした。

◆寛文期ころのアイヌ勢力地図(海保嶺夫氏による)

シャクシャインの戦いは、最初は漁猟権をめぐるハエクルのオニビシとメナシクルのシャクシャインの争いが発端でしたが、オニビシを倒したシャクシャインはエゾ地全土のアイヌに蜂起をよびかけ、松前藩=幕藩体制とアイヌ民族の戦いの火ぶたが切られました。最初は松前軍を圧倒していたシャクシャイン軍ですが、やがて幕府の支援をうけた松前軍が和平すると見せかけてシャクシャインを毒殺。アイヌ民族側は敗北し、エゾ地での松前藩の支配は強力なものになっていきます。
この戦いの背景には、松前藩の不公正な商場交易が、交易相手の制限、漁業権の侵害など、各地でアイヌの権利や利益を侵し、自由な交易を求めるアイヌ民族と交易を独占しようとする松前藩の矛盾が強まっていったことがありました。シャクシャイン軍に参加する和人もいたことは、松前藩の交易独占に対し不満を持つ和人も少なくなかったことを示しています。
◆静内町に立つシャクシャイン


18世紀中ころ(宝暦年間)
江戸で珍重。飛騨屋武川久兵衛イザリ川上流でエゾマツの伐採を始める
エゾマツは当時木目が美しいことから「蝦夷檜」とよばれ、珍重されました。鷹や砂金がとれなくなったエゾ地で、木材は漁業とならぶ主要な産業になっていきます。飛騨屋がイザリ川上流空沼岳東山麓など石狩の山林でエゾマツの伐採を始めたのは宝暦年間(一七五一~一七六三)のこと。イザリ川からは、春の雪解け水を利用して石狩川の河口まで流送し、船で江戸・大坂ヘ運ばれています。この飛騨屋武川久兵衛は三代目で、一七八九年(寛政元)のクナシリ・メナシ蜂起のときに場所請負人として悪名をはせた飛騨屋久兵衛は四代目にあたります。

 

1810年ころ(文化年間)
ユウフツ場所惣支配人 山田文右衛門イザリブト-千歳の千歳越えを開く
一七九九年(寛政一一年)、東蝦夷地は幕府の直接支配に置かれ、島松川を境に恵庭は幕府領となります。それまでのイザリモイザリなどシコツ十五カ所(十六場所)の運上屋は改められ、ユウフツ会所が設けられ、シコツ場所をふくめた広大なユウフツ場所が生まれました。このユウフツ場所とイシカリ場所を結ぶルートは重要な幹線道路で、ユウフツ場所惣支配人山田文右衛門(八代有智)は、文化年間にイザリブト-千歳間の道路を開き、千歳-ビビ間の道路を改修し荷馬車を通わせました。北海道での荷馬車の物資輸送は、この山田文右衛門が最初といわれています。

この千歳越えは、安政年間には、箱館奉行所の新道計画にもとづき、銭函から千歳にいたる幅二間 (約三・六m)の「札幌越え新道」大道路工事がおこなわれ、一八五七年(安政四)ユウフツ場所請負人山田文右衛門(十代清富)によってイザリフト-シママップ間が開かれ、交通の要衝としての恵庭の基礎が作られていきます。
 
◆苫小牧市勇払神社に残る山田文右衛門(十代清富)が奉納した石灯籠


1808年(文化5年)
石狩アイヌのシレマウ力、イザリモイザリの漁業権を訴えでる
イザリは、アイヌ語で「イチャン」(サケの産卵する場所)からきています。その名の通りイザリ川(漁川)・モイザリ川(茂漁川)は古くからサケの好漁場で、一八世紀末の寛政期にはイザリ場所だけで年間三万尾以上を出荷しています。

◆平沢屏山「マレックにて鮭突之図」(市立函館図書館)

◆鮭をとるための道具マレック(恵庭市郷土資料館)

 
この漁業権問題は、イザリ川・モイザリ川にウラエ(川をせきとめて漁をする場所)を持ち、サケ漁をしていた石狩アイヌのシレマウカが幕府の東蝦夷地の直轄によってイザリモイザリが幕府領となったために漁を禁じられたことから起こりました。争いは石狩アイヌと勇払アイヌ、石狩の役人・請負人と勇払の役人・請負人の争いに発展し、解決までに二十数年を要し、ようやくシレマウカの子のシリコノエに漁業権が戻ったのでした。
この事件は、実状を知らない官僚的な線引きによって、いかに住民の生活がおびやかされるかということと同時に、恵庭がイシカリ・ユウフツ両場所の争いになるほど、すぐれた漁場だったことを教えてくれます。
 
恵庭市郷土資料館に展示されている丸木舟
(復元製作は恵庭市在住のアイヌ文化伝承者である故栃木政吉氏)


1868年(明治元年)
明治維新で江戸幕府倒れる。
幕府脱走軍「蝦夷共和国」を樹立し、エゾ地騒然
江戸幕府が倒れた背景には、鎖国体制が崩れ、外国との関係が変化したことが一因としてありました。江戸中期よりロシアの南下が続き、幕藩体制をゆるがす「北方問題」となってきたエゾ地も、明治維新に少なからぬ影響を与えてきたといえます。

この年、薩長同盟軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まりますが、その戦火はエゾ地にも飛び火します。旧幕府海軍をひきいた榎本武揚は箱館に入港し、エゾ地全域を占領。投票によって榎本を総裁に選び、蝦夷島政権を樹立しました。しかし翌年新政府軍の猛攻で箱館は陥落。蝦夷共和国の夢はうたかたと消えました。榎本軍は室蘭に兵を置いていましたが、戦火は道南にかぎられ、恵庭周辺は静かなものだったようです。
 
◆森町鷲ノ木に着いた旧幕府軍の軍艦(市立函館図書館)

◆榎本武揚


1869年(明治2年)
開拓使設置されエゾ地は北海道に。
島松川を境に、「恵庭」は胆振国千歳郡となる
榎本の反政府軍を鎮圧した明治政府は、この年開拓使を設置し、蝦夷地を「北海道」に改めます。この「北海道」の名付け親は開拓判官になった松浦武四郎でした。開拓使は、場所制度を廃止し、全道を十一国八十六郡に分け、島松川を境に現在の恵庭市にあたるシママップイザリモイザリ胆振国千歳郡に組み入れられました。

◆初代開拓使長官 鍋島直正

◆第二代開拓長官 東久世通禧

◆第三代開拓長官 黒田清隆


1870年(明治3年)
高知藩七十余人が勇払・千歳両郡に入植。
「土佐っぽの意地」を見せたか
明治政府は、北海道の各地域を、全国の諸藩に割り当て、開拓を進めようとしました。

一八六九年(明治二)千歳郡は、勇払郡・夕張郡とともに高知藩(旧土佐藩)の支配に入り、翌年七十数名の開拓志願者がやってきます。恵庭周辺では、その年イザリフトに三〇〇〇坪(一ha)が開墾されますが、出水にあい開拓小屋まで流され、失敗したと伝えられています。
 
◆当時イザリフトとよばれていたあたり(現在の恵庭市漁太)

高知藩は、五万両近い金額を使い、積極的に開拓を進めますが、北海道全体で見ると各藩の開拓はいいかげんなものが多く、一八七一年(明治四)、廃藩置県とともに藩の支配には終止符が打たれます。
 

1871年(明治4年)
中山久蔵が島松沢に入植。
開拓者の入植が続く
この年三月、中山久蔵(きゅうぞう)が千歳郡島松村(島松川右岸、現在の恵庭市島松沢)に入植し、農業開拓者の入植が徐々に始まります。翌一八七二年(明治五)には、東京から村上芳三郎が茂漁橋付近に入植し、七三年(明治六)には、茂漁橋付近に池田菊松・池田竹蔵・鈴木勝次郎が、島松に山口安五郎・植田禮助などが入植。一八八〇年(明治一三)までに人口は二五戸九八人に増えていました。後の集団移民とちがい、開拓初期の自由移民は、商人・漁業者・士族が多かったといいます。開拓使は、鍬や鎌などの農具や手当を与えて移民を直接的に保護し、開拓を押し進めました。

◆入植初期の開拓のようす(北海道大学附属図書館)

 

1873年(明治6年)
室蘭―札幌間の札幌本道が開通。
島松沢に駅逓が設けられる
北海道の開拓にあたって、北海道の玄関口である函館と開拓使本庁が置かれた札幌を結ぶ道路の開設が急がれていました。開拓使は、一八七二年(明治五)、この「札幌本道」の工事に着手し、翌一八七三年(明治六)七月、函館から札幌にいたる長さ約一七七キロの長距離車馬道(森-室蘭間は海路) の大工事が完成しました。

それにともない島松沢(島松川右岸の恵庭市側)には駅逓所が新たに設置されました。「駅逓」とは、開拓期の交通・通信の拠点になった場所で、輸送のための牛馬が置かれたり、宿泊にも利用され、郵便物の輸送にも重要な役割を果たしました。島松駅逓所の初代取扱人は山田文右衛門清富です。島松駅逓所は、一八八四(明治一七)に島松川対岸の中山久蔵宅に移るまで、この場所にありました。
 
島松駅逓所(北広島市)

◆『札幌管内駅路壱覧図』明治17年

◆安藤広丞発行・歌川廣重(3代)画『北海道新道一覧雙六』明治8年(市立函館図書館)

なんだこれは。恵庭に「電信柱」が出現
札幌本道の開通にあわせて、この年、函館から千歳をへて札幌にいたる電信線が完成しました。これは「電報」という当時もっとも高速な通信手段のための工事で、道路にそって「電信柱」を立て、電線を引いていったものです。私たちには電気を運ぶイメージが強い「電信柱」ですが、どうして「電気柱」ではなく「電信柱」なのかというと、もともと電信のためのものだったからです。初めてこの「電信柱」を見た人々は、きっと驚いたことでしょう。一八七四年(明治七)には津軽海峡の工事が完成。翌一八七五年(明治八)には北海道・本州を貫く電信が開通します。

 
漁利村・漁太村がイサリ村に合併。
島松村と二つの村の時代となる
この年、行政区域の整理で、漁利村と漁太村が合併しイサリ村になりました。村とはいっても一戸しかないような場所が多かったため、整理されたものです。このときから一九〇六年(明治三九)の恵庭村誕生まで、本市は漁・島松の二村時代が続きます。

 

不可能を可能に。中山久蔵が水稲を試作し米を収穫
江戸時代から道央・道東をふくめて北海道各地で米作りに成功した記録はありますが、道南地方を除いては定着しませんでした。ところが島松沢右岸に入植した中山久蔵は、この年約五〇坪の水田で一反(一〇a)あたりに換算して二石三斗(三五〇kg)の米を収穫。年々収量を上げていきます。これは当時の常識をくつがえす出来事でした。


開拓使は、北海道開拓にあたって欧米の農業技術を導入し、寒冷地としての気候条件から畑作を奨励するなど、米作りに関してはきわめて消極的でした。しかし中山久蔵は、道南の大野村(当時)から、寒さに強い品種の「赤毛」を取り寄せ、苗代に風呂の湯を入れて水温を上げるなどさまざまな工夫によって寒冷地稲作の可能性を証明したのです。
さらに久蔵は、収穫されるモミから良いものを選抜しながら収穫を続け、一八七九年(明治一二)には、全道の農家に自作の種モミ数百俵を配布。「中山の赤毛」として、各地の米作りのいしずえを築きました。
 
◆赤毛種の水稲


1874年(明治7年)
樽前山噴火。
開拓使の技師、漁村から噴煙をながめる
樽前山は、記録に残っているだけでも江戸時代から何度も噴火をくり返してきました。

明治に入ってからも数年おきに噴火をくり返し、一九〇九年(明治四二)には大噴火を起こします。この一八七四年二月の噴火は、規模は小噴火でしたが、開拓使のお抱え測量技師だった船越長善(ちょうぜん)が調査のために現地へおもむき、克明な記録を残しています。それには、漁村にいたって初めて西南に噴煙が吹き出る樽前山が見えたとあり、漁村からのスケッチも残されています。
 
◆船越長善『胆振国勇払郡樽前岳噴火之図』から「漁村からの眺望」(北海道大学附属図書館)


1876年(明治9年)
今の駒場町・恵南地区に官営の漁村放牧場を開設
この年七月、官設漁村放牧場が、現在の駒場町・恵南地区に開設されます。最初は冬期間の牛馬の畜養場として作られますが、漁村が牧草に適さなかったため、真駒内放牧場の付属牧場として、毎年夏から秋の間だけ牛を放牧するようになりました。この漁村放牧場の開設にあたったのが、北海道畜産の父とよばれたエドウイン・ダンです。

現在恵庭市は酪農のまちとして知られていますが、これが本市の牧場のはじまりです。
 
◆官設漁村放牧場


1877年(明治10年)
札幌農学校クラーク博士、島松駅頭で教え子たちと別れる
開拓使は、北海道の開拓にあたって欧米の技術を導入するため、多くの欧米人技術者を招きました。そのような「お雇い外国人」のなかでも、札幌農学校の教頭として赴任したW・S・クラーク博士は、学問とキリスト教の精神によって、札幌農学校学生だった佐藤昌介・新渡戸稲造・内村鑑三などの日本人青年にもっとも強い影響を与えた人物でした。わずか九カ月の短い滞在を終え、教え子たちに「Boys,be ambitious!(青年よ大志を抱け)」この言葉を残して去っていったことはあまりに有名です。そしてその言葉を交わした場所が、本市の島松沢にあった島松駅逓の駅頭でした。

 
◆島松沢(北広島市側)に立つクラーク記念碑


1878年(明治11年)
鮭鱒捕獲禁止令によって漁川・島松川のサケ漁が終わる
かつて場所請負人や、その後を継いだ漁場持ちによる乱獲がたたり、千歳川・漁川などのサケは次第に数が減っていきました。開拓使はこの年、資源保護の名目で、千歳川・漁川などでのサケ漁を禁じます。しかしそのことは、それまでサケ漁を生活の糧としてきたアイヌ民族の生活権を一方的におびやかすものでした。また翌年には、大雪で鹿が大量死し、鹿猟も禁じられます。多くのアイヌが困窮するなか、開拓使は島松・漁・千歳・美々・苫小牧・勇払のアイヌに耕作法を講習したり農具や種子を交付し農民化を図りますが、それはアイヌ民族の先祖伝来の文化や民族性を勝手に奪った上でのご都合主義でしかありませんでした。

 
◆丸木舟のアイヌ(北海道大学附属図書館)


1880年(明治13年)
トノサマバッタ大発生。大群、勇払から札幌ヘぬける
この年十勝に発生したトノサマバッタは、大群となって日高から勇払を襲い、ここで二手に分かれ、一群は北進して札幌に入りました。

とりわけ日高・胆振・石狩の被害が大きく、エドウイン・ダンは「バッタの群が押し寄せて来てから数時聞もたたないうちに玉萄黍(とうもろこし)の葉はすっかり無くなってしまい…すっかり食い尽くされてしまった」と書いています。
この大発生は数年におよび、軌道に乗り始めた開拓に冷や水をあびせるものでした。
 
開拓使『北海道蝗害報告書』明治15年

千歳郡千歳村・烏柵舞村・蘭越村・長都村・漁村・島松村に戸長役場を設置
この年三月九日、千歳郡に戸長役場が開設されました。名称は「千歳郡千歳村・烏柵舞(うさくまい)村・蘭越村・長都村・漁村・島松村戸長役場(千歳郡各村戸長役場)」で、現在の千歳市と恵庭市がエリア。初代戸長は千歳村の石山専蔵です。

当時の戸長役場は戸長の自宅を使い、職員も一人という小さなもので、一八八五年(明治一八)まで漁村の鳥井志有四郎が小使(職員)としてつとめています。
戸長役場とは、地域の公共事務や戸籍・徴兵などの国の事務などを扱い、ひとつの戸長役場が複数の町にわたって作られるのが普通でした。道外では一八八九年(明治二二)の町村制施行で廃止されますが、北海道では戸長役場が大正期まで続きます。
 

1881年(明治14年)
明治天皇、北海道巡幸の途中、漁村で休憩
この年、開拓使の「官有物払い下げ問題」が全国をゆるがし、政変にまでいたりますが、そのさなか、明治天皇は開拓の実状を視察するため北海道を巡幸しています。八月末に小樽から札幌に入った明治天皇は、九月二日札幌から千歳に向かい、島松では中山久蔵の水田を見学し、漁村では現在の泉町に作られた「御小憩所」で休憩。住民は沿道で土下座をして迎えました。後に村民は休憩所跡に「帷宮碑」を建て、また明治天皇が飲んだ水をくんだ佐藤倉吉方の井戸には「御膳水碑」を建て、これを記念しています。まさにこの巡幸が、当時の村民にとって大変な出来事だったことがわかります。

 
◆帷宮碑


1886年(明治19年)
北海道庁ができ、「恵庭」は胆振国から石狩国
一八八二年(明治一五)、開拓使が廃止となり、函館・札幌・根室の三県が置かれました。さらに一八八六年(明治一九)三県を廃し、北海道庁が誕生します。北海道庁は行政機構の整理を進め、一八八九年(明治二二)には本市をふくむ千歳郡は胆振国から石狩国の管内に移されました。北海道庁は、これまでの開拓方針を改め、「貧民を植えずして富民を植えん」と資本家による投資を求め、資金や農具を移民に直接支給することをやめました。そして開拓のために、北海道全域の測量や植民地の選定、道路の建設、移住者への手引きの作成などをおこないます。

日本の農村の構造が大きく変化する明治二〇年代以降、土地を求める農民を中心とした北海道移民はブームとなり、それは大正中期まで続きます。
 
◆拓望の像

 
山口県から四〇戸が漁村に、二五戸が島松村に集団入植
恵庭の開拓、本格的にスタート
北海道庁時代、恵庭は本格的な開拓の時代に入ります。そのトップバッターは、山口県からの団体移住でした。この年、一八八四年(明治一七)の台風による水害をきっかけとし、山口県玖珂郡和木村・小瀬川村(現和木町)と麻里布村・装束村(現岩国市)から四〇戸が漁村に、二五戸が島松村に集団入植しました。山口団体の人々はそろいのはんてんを作り、汽船岩国丸に乗って小樽に上陸。四月に恵庭に入りますが、開拓の労苦はたいへんなもので、その年の飢えと寒さで二名の餓死者を出すほどでした。

 
◆汽船岩国丸

しかし翌年には約六一haの畑地がひらかれ、開拓地でのくらしも次第に安定していきました。この山口団体は、北海道への団体移民のさきがけともいえるものでした。
 
◆山口県人開拓記念碑


1887年(明治20年)
長州藩士四九戸が集団入植。離農する者多し
山口県からは旧長州藩(山口藩、萩藩ともいう)士もやってきました。この年四月、「士族就産所」の資金によって四九戸、二一九人が漁川沿岸に入植しました。明治維新で禄(給与)を失った士族のために、各地で援助をする組織や事業が生まれましたが、この「士族就産所」も、木戸孝允らが山口士族のために私費で設けたものです。しかも開墾地を拓いた上で土地を分けるなど、他の開拓者に比べるとめぐまれた条件での入植でしたが、農業に不慣れだったせいか定着する者は少なかったようです。

 
山森丹宮、漁村に移住。恵庭最初の医師
官立勇払病院医師・山森丹宮(たみや)は、中山久蔵(きゅうぞう)らに請われてこの年四月、漁村に移住しました。翌年には千歳郡各村村医として任ぜられ、それ以来この地で亡くなるまで医師として地域の人々につくしました。次第に人口が増えていく開拓地にとって医療・保健は重要な問題で、山森丹宮の来住は明るいニュースでした。

山森丹宮


1893年(明治26年)
加越能開耕社農場に加賀・越中・能登の小作移民七八戸が入植
加越能開耕社は、石川県の海陸物産商林清一によって設立された農場会社(社長は清一の父・林五郎平)で、千歳・馬追の原野九〇〇haの貸し下げを受け、加賀(石川)・越中(富山)・能登(石川)から小作農を募集して入植させるため、この年に設立されました。加越能の名は、ここからきたものです。この募集に応え、この年に七八戸の移民が加越能開耕社農場に小作として入っています。農場はのちに清一の子林清太郎が引きつぎます。

◆林清太郎表徳碑

このころから移民の入植ラッシュ。
水とたたかい、やがて米どころへ
山口団体の団体移住、開耕社への小作移住のほか、恵庭には次々と自費移民が入植します。一八八八(明治二一)にはわずか九七戸だった恵庭の戸数は、一九〇二(明治三五)には五四〇戸を数え、移住者の急増を示しています。しかし、入植しても毎年のように襲う水害に、すぐに村を離れる者も多く、数字にあらわれる以上の人々が、恵庭を通り過ぎていきました。

開墾当初は畑作中心だった農業も、低湿地を中心にしだいに水田の造成が進み、明治二〇年代末からは、「造田の時代」といわれるほど、用水路を掘り、水利と造田への取り組みが急ピッチで進んでいきました。
最初のころの稲作は無肥料で、寒冷地に合った「直まき法」(苗代を作らずモミを直接水田にまく)でおこなわれていましたが、そのときモミまきを合理的におこなうために北海道で発明されたのが「たこ足」です。
たこ足(恵庭市郷土資料館)
◆「たこ足」と「ねこ足」。ともに初期稲作で利用された水田直播き器。
「ねこ足」は「たこ足」の改良型(恵庭市郷土資料館)

ねこ足(恵庭市郷土資料館)

俵編み機(恵庭市郷土資料館)

千歳原野の「植民地区画」がおこなわれる
開拓使のもとで進められた開拓移民は、正確な地図もなく、屯田兵などを除いて土地の区画は計画性に欠け、湯水のように資金を使うわりには開拓の効果の上がらないものでした。そこで北海道庁は、一八八六年(明治一九年)から全道の測量と「植民地選定」(入植に適した土地を選ぶこと)を進め、そして一八九〇年(明治二三)からは、アメリカの開拓にならい、選定した土地を区画して、計画的に開拓者に貸し下げる「植民地区画」を始めます。

それは、一定の間隔で碁盤の目のように道路を敷き、一戸あたり約五ha(一万五〇〇〇坪/一五〇間×一〇〇間)の区画を作り、そこに開拓者を入植させるものでした。農村部にある「×線×号」という住所は、このときの区画にもとづくものです。千歳原野の区画は、一八九三年(明治二六)におこなわれ、現在の恵庭から千歳にかけて一〇〇一区画が測設されました。これをもとに開拓者の移住が進んでいきます。
◆千歳原野を測量する植民地区画測量隊(北海道大学附属図書館)


1897年(明治30年)
漁村・島松村エリアに戸長役場を設置。
初代戸長は橘完爾
この年六月、それまで千歳郡各村戸長役場に属していた漁村・島松村を独立させ、新たに「漁外一箇村戸長役場」が置かれ、七月一五日から戸長役場の事務が始まります。この時の人口は戸数一四三戸、五七二人。初代戸長は橘完爾(たちばな かんじ)でした。この年が恵庭が初めて独立した行政をおこなった元年。一九九七年(平成九)、一〇〇年目を迎えた恵庭市のスタートがこの年でした。

戸長役場庁舎と職員/明治37年

戸長役場設置告示文

漁郵便局、間借りで開局。ようやく便利に
北海道の郵便は、一八七二年(明治五)にすでに函館-札幌間の路線が開かれ、各地に郵便役所(郵便局)が作られました。最初は駅逓に併置されることが多かったといい、本市でも、島松駅逓取扱人の山口安五郎が、明治九年に島松沢に郵便局を開設したと「恵庭市史」にあります。恵庭郵便局の前身である漁郵便局は、一八九七年(明治三〇)、漁村の民家谷十郎宅に間借りして開設されました。それまで漁村の人々は千歳村の郵便役所まで出向かねばならず、ようやく便利になったのです。

◆大正初年の漁郵便局と職員


1899年(明治32年)
アイヌ民族の「保護」を名目に北海道旧土人保護法が公布される
北海道への移民の増加は、その反面、先住民族であるアイヌの生活をおびやかすものでした。

開拓使アイヌの独自の風習や文化を禁止するなどして和人への同化を図ってきましたが、この年、先住民であるアイヌの「保護」を名目に、農耕生活への転換を強いる「北海道旧土人保護法」が制定されます。「旧土人」という差別的な呼称を用いたこの法律制定の背景には、和人による詐取や虐待、サケ漁の禁漁などで生活基盤を奪われたアイヌが各地で困窮していたことがあります。しかし、アイヌに給与地を与えるとしたこの法律は、アイヌを農民化し、皇民(天皇に忠誠を誓う国民)教育をおこない、いっそうの同化を進めるものに他なりませんでした。実際はその土地の給付すらも満足におこなわれなかったのです。この「北海道旧土人保護法」は、一九九七年(平成九)、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」の成立によって廃止されるまで続きます。
◆千歳山中を旅するアイヌの親子(北海道大学附属図書館)

降雨はげしく河川がはんらん
二年連続の水害で多くの離農者。収穫皆無の大凶作
恵庭の開拓が進み、農地が広がっていくなかで、さまざまな困難も現れました。とりわけ水害と冷害のくり返しは、「漁太は三年に一度とれればよい」という状況で、開拓入植者のなかから多くの離村者を生んでいます。

前年の一八九八年(明治三一)九月八日、台風の豪雨で千歳川・漁川がはんらん、石狩川が逆流して家屋が浸水し、一カ月も水が引かないという被害をもたらしました。このときは幸いに水がつかなかったところは豊作でしたが、翌年十月、千歳川沿岸の各河川が氾濫し、田畑に浸水する被害を出しました。「収穫皆無の大凶作」だったといわれ、二年連続の水害に将来を悲観し、多くの離農者が出ました。本市にとどまった人々は、そのような自然災害とたたかいながら、しだいに農業地帯としての基盤を作り出していったのでした。
 

1901年(明治34年)
二〇世紀始まる。なにやら世情落ち着かず
二〇世紀が始まるのが一九〇〇年なのか、一九〇一年なのか、当時日本では論争があったそうですが、正しくはこの年二〇世紀の幕が開きました。この年は、前年に中国で起きた義和団事件をきっかけに、日本とロシアが対立を深めていく年であり、国内では田中正造が足尾鉱毒事件で天皇に直訴する事件が起きています。福沢諭吉が没し、また札幌で紙店を開いていたこともある明治を代表する思想家・中江兆民が亡くなったのもこの年。そして恵庭には二〇世紀のスタートとともに、陸軍演習場が作られます。

◆20世紀最初の新聞紙面(旧北海道毎日新聞/明治34年1月5日)

陸軍省は島松村の
約三,六〇〇haを演習場として指定  恵庭演習地の始まり
日露戦争を想定して、陸軍は島松の約三,六〇〇haを陸軍演習場として指定。戦場となるだろう中国東北部を模して大森林地帯を一気に切り開きました。大木は民間に払い下げ、残りは燃やし、「その炎は演習場の空を、一年以上にもわたって、昼夜の別なく赤々と照らし」(『百年一〇〇話』)たそうです。

◆陸軍演習場(大正5年)
国土地理院大正5年測図、大正6年測図 札幌 漁 5万分の1

恵庭に最初の地酒メーカー誕生。幻の酒「豊漁
恵庭には現在、良質な水を原料にサッポロビール北海道工場が操業していますが、恵庭最初の地酒メーカーは、この年に生まれました。当時村内で小売業を営んでいた丹波屋商店・野原秀太郎が始めたもので、銘酒「豊漁」の名で売り出しています。『恵庭市史』によると、約十年ほど製造を続け、廃業したと伝えられています。さて、どんな味だったのでしょうか。

◆「豊漁」のびんとラベル(恵庭市郷土資料館)


1904年(明治37年)
日露戦争が開戦。恵庭からも多くの兵士が出征
この年二月、日本はついにロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まりました。恵庭からも多くの住民が兵士として出征していきました。その数や戦死者については残念ながら記録が残っていません。しかし全国で一〇〇万人近い兵員が動員され、戦死者は約八万四千人、戦傷者も一四万人以上という犠牲を出しています。村でも愛国婦人会が慰問袋を作ったり、住民が献金をおこなうなどして戦争を支えました。全国的に国民総動員の様相が生まれていく一方で、札幌農学校出身のキリスト教思想家内村鑑三らが非戦論を唱えるなど、戦争に反対する動きもありました。

◆旅順港のロシア軍艦を砲撃/明治37年8(写真提供/共同通信社)

◆徴兵検査に出かける大正時代の恵庭の若者たち


1906年(明治39年)
漁村・島松村が「恵庭村」に。雲青き恵庭岳から村名をとる
戸長役場時代の明治三〇年代の恵庭は、さまざまな公共の機関がととのい、人口も急速に増え、まちとしての基盤が作られた時代でした。その総仕上げとなったのが、この年四月一日、本市に北海道二級町村制が施行され、恵庭村が誕生したことです。このように町村に一級、二級の等級を設けたのは北海道だけの制度で、二級町村制は住民の負担が少ないかわりに自治的権利が押さえられています。そこには開拓地に移住した人々が地域に定着しないことが多く選挙権を持つだけの経済力を持つ戸口(当時は一定額以上の税を収める男子にしか選挙権がなかった)がとぼしかったという事情がありました。村長は道庁による任命制で初代村長には、山崎初吉が任命されています。恵庭岳からその名をとった恵庭小学校がすでに開校していましたが、村名にもその「恵庭」が採用されました。

◆村名のもととなった恵庭岳(アイヌ語名エエンイワ)

第一回村会議員選挙。一〇名の村会議員、威風堂々と
戸長役場時代には少数の「総代人」が選出されていましたが、二級町村制の施行によって「村会」が村の議決機関として設置されることになり、この年、第一回の村会議員選挙がおこなわれます。定数一〇名の村会議員に当選したのは、写真の人々。威風堂々とした記念写真からは、恵庭草創期の人々の気骨が伝わってくるようです。しかし、現在の自治制度とは大違いで、すべての村民に平等に選挙権があったわけではなく、とりわけ女性に選挙権が与えられるのは、これから四十年後の第二次世界大戦後のことでした。

◆第一回の村会議員
(前列左から出倉卯平・平中杢右衛門・藤本豊槌・岩井与三吉、後列左から杉森松次郎・小林市次郎・山森丹宮・花野友次郎・嘉屋菊之助・山田新左衛門)


1909年(明治42年)
樽前山十五年ぶりに噴火。
はげしい噴火とともに、頂上に巨大なドームが出現
この年一月一一日、樽前山は十五年ぶりに噴火。この年だけで五回の噴火をくり返しました。恵庭昭和史研究会『百年一〇〇話』によると噴火は一月一一日、三月三〇日、四月一二日、四月一七日、五月一五日と続き、三月三〇日、四月一二日は大噴火。四月一七日の噴火では、頂上に巨大なドームが出現しました。住民にとっては恐ろしい五カ月間でした。

◆明治42年3月30日の樽前山大噴火

恵庭・広島・千歳の三村を区域とする漁巡査部長派出所できる
恵庭の警察署の始まりは、一八九〇年(明治二三)、山森丹宮が敷地を寄付して巡査駐在所を作ったことが最初です。その後恵庭の人口は急増し、このころには千歳郡の中心となっていました。この年、恵庭村に恵庭・広島・千歳の三村を区域とする札幌警察署漁巡査部長派出所が置かれたのも、そんな事情からです。この巡査部長派出所には、三村に置かれた巡査駐在所を統括する役割があり、住民の安全を守りました。

◆漁巡査部長派出所/明治42年


1910年(明治43年)
恵庭村役場、原因不明の出火で全焼。
重要書類ことごとく焼け、途方にくれる
この年四月一八日、原因不明の出火で村役場庁舎が全焼するという事件が起こりました。金庫保管の書類以外、戸籍簿をはじめ、重要書類がことごとく焼けたそうです。『百年一〇〇話』によると、役場の設置場所をめぐる怨恨説や泥棒説などの放火のうわさがありましたが、真相は藪のなかでした。戸籍簿を作り直すときには、ずいぶん名前や生年月日の誤りもあったようです。

この役場の設置場所問題というのは、恵庭村役場ができたときに漁村と島松村の対立があり、間をとって中恵庭になったという経過があったことです。同年七月には焼けた庁舎が建て直されますが、このときにも設置場所の対立が再燃。漁市街地に移転させるべきだという意見と、従来の場所に再建すべきだという意見が真っ向からぶつかりました。結局は中恵庭の従来の場所に再建されましたが、対立感情はその後も尾を引きました。
◆中恵庭にあった村役場庁舎/大正15年に改築したもの

ハレー誓星大接近に村は大騒ぎ?
この年のハレー慧星大接近は、世界的なパニックとなり、「酸素がなくなる」「有毒ガスで人類が死滅する」などの流言飛語(根も葉もないうわさやデマのこと)が飛び交いました。長く息を止める練習がブ一ムになったり、空気を入れた自転車のチユーブが飛ぶように売れたそうです。今のようにテレビのワイドショーなどない時代ですから、恵庭ではどんな風に話題になっていたのでしょうか。

◆100年を祝う年に接近した、ヘールボップ彗星