「文化五辰十一月」 |
一 松本又右衛門差出候松前並道中筋共風聞書 |
「文化五辰十一月 日 摂津守え御直和泉守上る」 |
松前表え差遣候御普請役松本又右衛門差出候書付写 |
松前表並道中筋共風聞仕候趣左に申上候 |
一 松前表掛御役人の儀、当春迄は調役並びに下役・在住毎夜相集り酒宴を催し、酒狂の上遊女町え罷越候ものもこれ有る趣にて、毎夜会合の事故多分の入用も相掛り、在住家内持の内には甚だ迷惑に相心得候ものもこれ有り候得共、寄合酒宴等いたし候儀は、一体箱館表よりの仕癖の由にて、今以て兎角寄合酒宴等いたし候趣にこれ有り、都て衣類等も美服を着し、下役・在住に至るまで専ら毛類の羽織・銀きせる等相用い候儀にて、至って風俗も宜しからず、右に准じ暮し方の儀も分限不相応なる趣に御座候。 |
一 当春中迄は御役所にて酒等相用い候趣にて、御収納方手代松本次右衛門と申す者名前にて会所より酒拾樽余御役所え遣し候代金未納これ有り、会所取調に付、掛より催促いたし候処、右酒は調役並高橋次太夫差図にて御役所にて相用い候分に付、同人帰郷迄相待ち呉候様相断り候趣、其外湯呑所へ相詰候同心の儀は弁当も持参致さず、会所より品々取寄せ焚出し、都て入用次第いたし置候趣相聞申候。 |
一 当夏中、西地いしかり場所運上金千五百両にて御用達伊達林右衛門外弐人え御預け同様引請仰付けられ候処、一体運上金千七百両にて御請仕り度き段市中願人もこれ有り候由の処、調役三浦喜十郎、下役庵原直一去卯年会所御勘定仕上げ取調掛にて、右仕上に付金弐百両余相知れざる分これ有り、右の分用達共え償わせ候積り取拵候に付、補右いのため金弐百両せり増候(而)市中願人これ有り候得共千五百両にて御調達共え引請の積り取計らい候風聞に御座候。 |
一 当夏中御雇村上島之丞荷物のよしに陸附に相廻候処、島之丞江戸詰にもこれ有り疑敷も相見候哉、沖ノ口番所に相改候処、右は町年寄にて御収納方元締相勤候桜庭丈左衛門其外問屋共商い荷物反物にこれ有り候由。余程金高の品にて、口銭上納仕候得ば金拾両程にも相成り候由の処、「右の始末に付掛りのもの了簡にて相済まざる儀に付、内々淡路守殿(村垣)迄も相伺候由の処、表立候ては相済まざる儀ゆへ、以来右体の儀これ無き様申聞、内分にいたし申すべき旨御差図もこれ有り候由にて、其侭差置候由」。但此朱書の分除く。如何いたし候哉其侭にて相済候由「ト認差出ス」。然る処、一体右沖ノ口番所御収納物元締をも相勤候もの、右体不埒の儀其侭差置かれ候儀故、外々改にも響き、市中一統気受も宜しからざる風聞に御座候。右に限らず市中町人江戸表仕入物等、地役・同心往返の節、江戸表町人より相頼まれ、御定の賃銭請取、自分荷物に相仕立持来り候類も間々これ有る由。売荷に候得ば御定の賃銭にては相済み難き故、勝手合にも相成り候故相頼み候よし。持参いたし候ものも宇都宮宿より先には人馬も余処に差出候事故、賃銭相払わず相済候故、是又勝手合にも相成候に付、往返の砌は所々相尋持来り候由承り及び申し候。 |
一 調役並最上徳内、当春中よりカラフト詰にこれ有り候処、右場所御固め会津家人数え対し、自分鍵(限)の了簡に任せ居小屋取建方其外食物等に付き品々取扱い方宜しからず、一統立服いたし殺害いたし候積り評議いたし候処、頭取候重役の者公儀御役人の儀にもこれ有り候間、其侭差置候様理解申聞け差押え置き候由。これに依り徳内儀は相士調役荒井平兵衛と場所入替り候由の風聞に御座候。一体徳内出所より当時迄の成行、市中のもの一統承知いたし居り、松前家上知に相成候も彼が仕業の様にも相心得、市中一統の気請宜しからず、去々月中カラフトより松前表へ帰郷、町旅宿の内往来の者徳内宿札を見候ては、品々悪口いたし罷通候ものもこれ有る趣、見及び候ものも間々これ有り、畢竟右の通り気請宜しからざるより、前文のカラフトの仕末取扱風聞いたし候儀にも候哉、右等の処相分たず候へども、一体風聞宜しからざる様に相聞申し候。(以下略) |
松本又右衛門なる者の身分はわからず、また真疑いずれにあるかもわからないが、しかし密命を帯びてこのような批判を受ける内容を見聞して報告したものらしく、これが東蝦夷地の直捌制度を廃止する理由の一端をなしたことも充分考えられる。