諸術調所

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 安政3(1856)年箱館奉行は、西洋諸学術の研究および教育普及の目的で、諸術調所を創設した。その教授には伊予大洲藩士武田斐三郎成章を登用したが、同人は「蘭学の儀は当時有数比類なく、且漢学にも長じ、志気慷慨、天稟非常の才器」と評された人物であった。彼は竹塘と号し、緒方洪庵や佐久間象山の門に学び、詩文、医学を修め、蘭英仏の諸語にも通じ、かつてロシア船が長崎に来た際、蘭学者箕作阮甫に従ってこれに応じた。また安政元年堀、村垣両名に随行して蝦夷地巡回の途中、たまたまペリーの箱館来航に際会し、安間純之進らとともに応接し、次いで蝦夷地樺太を巡察した。安政2年箱館詰を命じられ、器械製造と弾薬製造の御用取扱となり、入港の外国船について、艦船の製造、砲台の築造などの方法を学んだ。一方、器具製造、金属分析術などへの研究も進んだので、その学殖を高く評価した竹内、堀両奉行が安政3年、幕府に稟議し、ここに諸術調所が実現したのである。
 調所舎屋は御殿坂西の斐三郎役宅の隣家を買って増築し、これを綜覈館(そうかくかん)と呼んだ。綜覈とは綜合的に研究するという意味である。はじめ奉行所では、この教育機関を洋学所とする予定であったが、最初からこれを建設するのは経費も多くかかるので、簡易を旨として分析所と称したのであるが、幕府の命によって諸術調所と呼ぶようになった。ここでは蘭学はもちろん、航海・測量・砲術・築城・造船・舎密(せいみ、化学)・器械の諸学を教授し、幕吏、藩士を問わず入学を許し、公私貴賤の別なく人物本位の教育をしたので、本州各地から学ぶ者が集った。斐三郎が開所前にその教授法を述べたものに、「学生之義は原書生、訳書生との両部に分ち、原書生は文典、航海書、算法書等順次を逐て教授仕り、訳書生へは各々訳書上にも講習致し、何れも毎月六度宛相試み、其熟不熟又は勤怠に応じ月旦評相定む可くと存じ奉り候」とあるから、おそらくこれを実行したものと思われる。こうしてここから、山尾庸三(宮中顧問官)、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)、蛯子末次郎(航海術、大阪地方海員審判所長)、今井兼輔(海軍大臣)などの人材を輩出し、いずれも卓絶不羈の人物であった。しかし、俗吏の中には、実用に適さずと批評する者もいたので、斐三郎はその実証を試みるべく、安政6年、奉行から預けられた箱館丸に乗り、産物を積んで自ら指揮し、門生を率いて北海を巡航し、更に転じて南海に出て、摂津、播暦、上総、下総から陸奥を経て南部の宮古に越冬し、ここで熔鉱炉を見学、翌万延元年箱館に帰った。翌文久元年には、亀田丸に乗ってロシア領ニコライエフスクに至り、貨物を交易し、黒竜江地方を実測するとともに、天文、地理、測量術や西洋発明の諸器物の製造法などを見学して来ている。当時、航海術を実地に学べるところは箱館長崎よりなく、特に斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に貢献する有為の人材を生むに至ったのである。このほか斐三郎は五稜郭弁天岬台場などを設計築設し、また尻岸内に溶鉱炉を造っているが、文久2年には幕府から招かれた米国の地質学者ブレークパンペリーの2人から、採鉱や冶金法などを学んだ。なお、この2人は学生にも採鉱法、熔鉱法、分析法を講じたという。
 元治元(1864)年、斐三郎が江戸の開成所(東京大学の前身)の教授となって転じてからは、諸術調所も自然消滅の形となった。後年同所の蔵書の一部を運上所に移そうという動きがあり、その時の伺書の目録を見ると、人類学、動物学、計量関係などの洋書から、各種語学辞書、諸芸韻類(大英百科辞典)まであり、また岩内炭山発掘の時に使用された多くの鉱山書も、同所の蔵書である。更に静岡県立中央図書館の葵文庫には、諸術調所印のある兵法の浄書が多くあり、これらからも同所の研究内容がいかに高度なものであったかがうかがわれる。