沖之口制の運用は次のような点で箱館中心の運用に改められた。
まず、東蝦夷地関係の出産物を徹底して箱館に集荷することがはかられる。西蝦夷地産物を松前、江差経由で移出することをみとめ松前藩の従来の徴税権をそのまま存続させたこと(前述)に対応するかたちで東蝦夷地産物の箱館への集中を強めるというように見える方法をとったのである。
東蝦夷地のユウフツ場所の請負人山田文右衛門は、ユウフツ場所内の千歳川での漁獲鮭、「ユウフツ蝦夷人」がイシカリ川へ出稼ぎし、そこで漁獲した鮭、「ユウフツ蝦夷人」がアツタ、ヲタルナイへ出稼し漁獲した鰊について、松前藩時代には、すべて松前経由で移出することをみとめられていた。文右衛門は、従来どおりの積出し方式を箱館奉行へ出願したが、箱館奉行の態度は、次の如くであった。「西蝦夷地之内江東地より出稼漁業之荷物元場所江歩方引去残者全ク蝦夷地産物同断之儀ニ有レ之候付クナシリ場所よりも西地リイシリ江出稼も有レ之、其外近場所よりも右之類有レ之何れ茂同様之儀ニ而御取調済之上者同断当処江積取扱被二仰付一候」(林家場所請負文書「慶応元丑年十一月先般再ヒ御料以来去ル安政三辰年より同四巳年中西地イシカリ アツタ ヲタルナイ タカシマ 右四ケ所御場所表私出稼所取揚鮭并鯡荷物積取御免判御引継歎願書八通御請書三通写合冊」のうち安政3年5月の記録、道図蔵の複写史料)-他の場所でも、すべて東蝦夷地から西蝦夷地へ出稼ぎして漁獲したものは東蝦夷地産物として扱い、箱館へ出荷させているので文右衛門の出願はみとめられない、というのである。ユウフツ場所内の千歳川での漁獲鮭については、松前への出荷出願自体を拒否されていたので、文右衛門の従来の積出方式は全面的に否定されたのである。実際には、様々な緩和措置もあったが、従来どおりの方式がすべてみとめられるのは、慶応2(1866)年になってからであった(同前、この件の詳しい経過については、君尹彦「山田家出稼荷物一件」〈北教大史学会〉『史流』29号を参照)。この頃、箱館奉行は、物価騰貴などを理由に請負人への賦課を大幅に引上げていたから、それに関係しての宥和策の性格をもった扱いとも思われる。山田文右衛門のユウフツ場所では、運上金250両のほか弐分金5両、仕向金323両2分余、合計578両余の上納であったが、慶応元年から新たに賦課された増運上金は、1000両だったのである(河野常吉資料「場所請負人及運上金」(抄)『松前町史』史料編第3巻)。
安政6(1859)年、蝦夷地の各地を東北諸藩へ「領分」として給したときも、藩領として各藩が「領分」の産物を自由に搬送することは許さなかった。諸大名「領分」の産物が、松前、箱館を経由せず、「役銭」を納めないまま搬出されたのでは、松前藩は「収納凡半を減候姿」となってしまい「箱館御警衛」の任務も果たせなくなってしまう、箱館もまた「沖之口収納」が大きく減じてしまう、それに、各「領分」の産物が「直䑺」で流通するようになれば、幕府領となっている所からの産物積出しの統制もやりにくくなって「江戸、大坂、兵庫産物会所御取締并御益筋にも差響」き、商品の取扱量が減少すると商家の営業にも差支え、「民心惑乱」のおそれもある、として、「漁場諸仕入竝辺海之産物は都て出入共東は箱館、西は松前ニ而改受候様可レ致事」(前出「書類」)と、従来の沖之口制の統制を諸大名の産物についても強制する体制をとったのである。
前述のような流通規制を強める面とは反対に運用上の緩和の面もみられた。税率の引下げなど、次のような点で緩和策がとられていた。
(1)沖之口の「御口銭」は、松前藩が嘉永5(1852)年、築城のため2分から3分へ引きあげていたが、安政2(1855)年正月、もとの2分に引き下げた。
(2)安政4年3月、東蝦夷地の産物については問屋の入札値段の届出によって、それより1割安い値段で、「御口銭」を徴収することとした。
(3)同年同月、諸廻船の積荷については、間尺石数から「道具引」として2割を差引いた「間尺正味石」で「御口銭」を徴収することとした。
結局、廻船の積荷のうち2割は非課税の扱いになり、残りの荷物の売上額の1割を減じた額について2分の「御口銭」が課されることになり、箱館では、積荷の3割ほどが、免税のような扱いとなるわけである。箱館の町年寄も「凡御役銭上納方ニ而三割程も御用捨被二下置一候次第実以難レ有奉レ存候故畢竟追々当今之繁花を成候」(「箱館会所御用留」-慶応元年)-箱館の繁栄は沖之口課税が3割減となるほどの優遇が原因となっている、と考えていたという。
この優遇、緩和の措置は、「御料に相成却而仕来通可二心得一旨御達相成候得共御開拓筋専ら御趣意ニ而御寛仁も被レ為レ施候」(「諸書付 文久元酉七月ヨリ 沖之口御番所」道文蔵)-幕領になっても従来どおりの扱いということであったが、開拓促進を重視するために、かえって「寛仁」の扱いになった、といわれるように、幕領蝦夷地の開発を考えて、松前藩の施策とは異なった緩和策-同時期の松前沖之口でもこのような緩和策は見られない-をおこなっていたのであった(沖之口課税の緩和率については、岸甫一「箱館開港と沖之口流通支配-外国貿易開始を契機とする箱館沖之口番所の機構変化」『地域史研究はこだて』第5号によった)。
鯡大網を公式に許可する制度をとったことも従来にない施策であった。
松前藩は、鯡漁は差網によることを原則として引網、おこし網など大規模な網による漁法を禁止していた。大網禁止の厳達は何度もくりかえされているが、厳達のあとはすぐに、場所請負人の請願によって条件付緩和措置がとられたりする-天保14(1843)年の禁令の翌年には、出稼の小漁民が網を入れないところ、差網では漁をしにくいところでは、小漁民と相談のうえで大網を使用してもよいとされている(「西蝦夷地網切騒動並建網冥加之覚」『松前町史』史料編第2巻)-などで、禁令の効果はうすいものであったが、小漁民の不満がくりかえされ、しばしば不穏な状況にもなる(訴願、騒動のくりかえしの様相については、『松前町史』通説編第1巻下の第1章第4節参照)ので、松前藩は、大網禁止の原則を変更することはなかった。
安政2~3年にかけての網切の騒動、江差の役所への訴願のときも松前藩は、禁令のくりかえしという方法をとっていたが、事態をひきついだ箱館奉行は、大網公許の方法をとった。大網1統に付き金3両づつを上納させ、その使用をみとめる、大網は500統ほどあるので1500両ほどがあつまり、その金で小漁民保護のための備米を設け、凶漁などのときの救助をする、という方法であった。大網は資源保護や小漁民保護のうえで問題はないと考えたのではなく、そのような問題点はさておき、として(「大網之善悪は閣き」)、大網を禁じたのでは、奥羽、北越方面からの出稼漁民が5000人も減ってしまう、場所請負人ら大網を使うものの雇人らを蝦夷地交通の人足に徴して来たが、それが減ってしまっては「通交、御固人数交替」にも差支える(前出「書類」)、というような蝦夷地経営上の便を考えてのことで、それは、ほとんど場所請負人らの主張をそのままみとめたかたちのものであった。幕府の蝦夷地経営には、場所請負人の経済力が欠かせない条件と考えられていたことが、この大網の一件にもあらわれているわけである。
しかし、大網公許の政策は、全く場所請負人層の利益とばかりは言えない事態になって行くのである。大網公許となると、新規に大網操業を出願する漁民が出てくる、松前の仕込商人たちが資金を提供して、場所請負人の許可もないうちに場所に大網を持ち込んでくる漁民があって請負人との間でもめごとを起こしている(ヨイチ場所では、大網公許の安政4年、11人もの漁民が新規に大網を持ち込んで来ていた。『松前町史』通説編第1巻下)。請負人は、他からの資金により操業し、漁獲物も、請負人の支配下にはおけず、自由に搬出されてしまうかたちで、自分の場所に大網が増加するのは喜ばなかった。場所経営のなかで請負人の地位が相対的に低下してくるからである。幕末期に西蝦夷地の各場所で大網を増加させて行くのは、請負人自身というより、前述のかたちで仕込商人の力を背景にした大網操業の漁民たちであった。表序-6でみてみると、大網の増加が、主として「浜中」=出稼漁民の間にみられるのであり、請負人の運上家、番家ではほとんど増加していないことがわかる。
請負人の利害にもとずく施策のように見えたが、場所に於ける漁業生産の拡大のなかで、請負人の地位が低下して行き、その特権的な性格を次第に相対化して行く動きに力を与える役割をもになう施策となっていったのである。
表序―6 大網操業統数
『松前町史』通説編第1巻下より
ヨイチ | テシヨロ | タカシマ | |
運上家 番家 浜中 | 運上家 番家 浜中 | 運上家 番家 浜中 | |
安政3(1856)年 | 12統 9統 | ||
4 | 13 14 | ||
6 | 12 23 | 6 23 | |
万延元(1860) | 12 24 | 6 23 | |
文久元(1861) | 26 | 12 27 | 7 23 |
2 | 12 27 | 7 23 | |
3 | 12 29 | 7 24 | |
元治元(1864) | 12 31 | 7 23 | |
慶応元(1865) | 12 33 | 7 25 | |
2 | 27 | 13 33 | 7 25 |
3 | 12 30 | 13 33 | 7 25 |
明治元(1868) | 13 33 | 7 25 | |
2 | 13 44 |