役所の設置法令と実務の実体

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 表1-2 「政体書」体制首脳表
太政官
 氏名           出身
議政官上局議定 三条実美         公家
岩倉具視         公家
中山忠能         公家
正親町三条実愛      公家
徳大寺実則        公家
中御門経之        公家
蜂須賀茂韶        徳島
山内豊信(容堂)       高知
松平慶永(春嶽)       福井
鍋島直正         佐賀
由利公正(三岡八郎)     福井
福岡孝弟(藤次)       高知
小松清廉(帯刀)       鹿児島
木戸孝允(桂小五郎)     山口
後藤象二郎        高知
大久保利通(一蔵)     鹿児島
広沢真臣(兵助)       山口
副島種臣         佐賀
横井平四郎(小楠)     熊本
西郷隆盛(吉之助)     鹿児島
岩下方平(左次右衛門)   鹿児島
下局議長大木喬任         佐賀
坂田莠          高鍋
議員 各府薄県からの貢士
行政官輔相三条実美         公家
岩倉具視         公家
弁事平松時厚         公家
大原重朝         公家
坊城俊章         公家
鳥丸光徳         公家
勘解由小路資生      公家
坊城俊政         公家
五辻安仲         公家
阿野公誠         公家
秋月種樹(右京亮)      高知
神山郡廉(左多衛)      高知
門脇重綾(将曹)       鳥取
田中不二磨(邦之助)     名古屋
丹羽淳太郎(賢)       名古屋
毛受鹿之助        福井
青山小三郎        福井
神祇官知官事鷹司輔煕         公家
亀井茲監(隠岐守)      津和野
会計官知官事万里小路博房       公家
大隈重信(八太郎)      佐賀
(明治2.5.15より)
軍務官知官事嘉彰親王(仁和寺宮)
長岡護美         熊本
外国官知官事伊達宗城         宇和島
東久世通禧        公家
刑法官知官事大原重徳         公家
池田章政         岡山
民部官知官事蜂須賀茂韶        徳島
広沢真臣         山口
※民部官は明治2.4.8設置
 「大政官日誌」、『日本近代史辞典』より作成

 
 これらの混乱は、中央における法的な措置と、箱館で実際に役所が開設された時を混同したため、諸説が生まれることになったと思われるので、中央での法的措置と、箱館での実際の動きを分けて整理してみる。
 箱館裁判所の設置時期については、4月12日が定説となっているが、典拠を遡っていくと『復古記』『明治天皇紀』等が典拠としている「職務進退録」の軍防事務局督仁和寺宮嘉彰親王への辞令「箱館裁判所総督被仰付候事」及びに「太政官日誌」の清水谷侍従・土井能登守への辞令「箱館裁判所副総督被仰出」とに行きつき、『法令全書』の編集者も「箱館裁判所を置くの令、他に見る所なし」と注記し、裁判所設置法令不明のまま総督副総督任命辞令をもって、裁判所設置と考えている。
 この時期、新政府は、主任官複数制の3職7課制(1月17日)から各局の主任官「督」を1人に整備した3職8局制(2月3日)へ移行し、更に、3月14日の五箇条の誓文に則り統治機構の整備に取り組んでいたが、機関設置に関しては主任官の任命辞令のみが確認されるものと、機関設置が布告された後に主任官任命辞令が出されたものとが見られ、機関設置の基準が明確なものとなっていない。
 しかし箱館裁判所については、3月25日に「衆議に基づき、先ず人選を決定し、然る後裁判所取建」と決定されてもおり、さらに総督、副総督人事が行われた2日後の4月14日には、秋田、南部、津軽、松前の4藩へ、達書が出され「今般箱館裁判所御取建、総督、副総督等被差置候に付ては」と、裁判所設置後の処置指令として蝦夷地警衛を命じており、箱館裁判所の設置を4月12日とする考えは妥当なものといえよう。
 なお、「太政官日誌」には副総督の辞令のみが載せられ、総督の辞令が載せられていない。これは、総督に任命された仁和寺宮の家記に「箱館云々の儀は被為辞の処、軍務事務局督如元被仰出候旨御演達」とあるように、仁和寺宮が箱館裁判所総督拝命を辞退したため、総督任命辞令を載せなっかたものと思われる。
 次に閏4月24日に箱館裁判所が箱館府と改称されたとする説であるが、典拠はやはり「職務進退録」の清水谷公考への辞令「箱館府知事被仰付候事」となる。閏4月21日、五箇条の誓文の具現化を目指して3権分立を謳った「政体書」が出されて、統治機関の整備が進められ、地方は府・県・藩の3官となり、政府の直轄地は府と県になった。この「政体書」体制は明治新政府が初めて法的に整備された体制として打ち出したもので、以後の体制整備の根幹を成すものであるのである。「政体書」体制の首脳人事表を表1-2に掲げておく。
 開港場箱館にあって蝦夷地開拓を委任された箱館裁判所は、重要地方行政機関との位置づけから箱館県とならず箱館府となったものと思われる。この時も機関名改称の法令は不明で、『法令全書』には、箱館裁判所設置の際と同様に、設置法令不明の注記がなされている。中央官の長官である「知官事」は「政体書」が出された閏4月21日の発令となっているが、地方官の知府事・知県事は、24日の京都府、箱館府の知府事任命辞令以降各々個別に辞令が出されている。21日の「政体書」で府県が一斉に設置されたとするよりも、知府事知県事の任命辞令月日をもって、府県への改称期日とすること、つまり箱館府の場合は、24日に箱館府と改称されたとするのが妥当であろう。
 では箱館における実態はどうであったかというと、前述したように5月1日、五稜郭の旧箱館奉行所庁舎を箱館裁判所として開庁された。次いで7月17日、
 
先般於朝廷箱館裁判所総督ト被仰出所、当度御改革ニ付箱館府知府事と被仰出候間、以後知府事殿ト相唱候趣被仰付候事、判事ノ儀モ判府事権判府事ト被仰出候事
   七月十七日 (山越内村に八月十六日着)
下湯川村深堀上湯川村鷲巣志苔村亀ノ尾銭亀沢村石崎小安村戸井村尻岸内尾札部臼尻村鹿部村砂原村掛間村尾白内村鍛冶村神山村赤川村石川郷大川村中島郷七重村飯田郷城山郷藤山郷有川村戸切地村吉田郷三谷村三好郷富川村茂辺地村当別村三ツ谷(石カ)村釜谷村泉沢村札刈村木古内村亀田村一本木村千代田郷中ノ郷濁川村文月村大野村鶴ノ郷本郷市ノ渡村峠下村森村鷲木村落部村山越内村長万部
合五拾六ヶ村(山越内村帳場「触書留」)
注 順達の村々名も紹介したのは、幕末期箱館の役所が直接支配した地域を示すものとして重要と考えるので、付け加えておいたものである。

 
 と管内に布告された。これは、7月10日に箱館港に入港のプロシア商船ロワ号(箱館裁判所判事井上石見が箱館府の為に購入した船)が、もたらしたと思われる6月25日付の井上石見(彼は蒸気船ロワ号買入と金策のため横浜へ出張していた)の書簡に「箱館裁判所ノ儀別紙日誌(この日誌とは慶応4年5月の項に「政体書」体制で成立した官員録が載っている「太政官日誌」を指すものと思われる)ノ通リ御総督名目モ知府(事が欠か)ト相替リ申候故、右ノ旨各国ミニストルへ表向外国掛リヨリ談判ニモ相成候、就テハミニストルヨリ函府在住ノコンシュルへモ可達候間、其思食ヲ以御布告相成度奉存候」(「清水谷家文書」東史蔵)とあったのを受けて出されものと思われる。その後箱館の各国領事にも7月22日に「総督殿改て知府(事)殿と相唱候様京都より被仰出候旨、各国岡士へ御書翰御差出し相成候事」(「清水谷文書「外国局日誌」『函館市史』史料編2)とその旨を通知している。つまり5月1日から7月17日までが箱館裁判所で、7月17日以降箱館府となったわけである。
 しかし、井上石見の書簡も、7月17日の布告書も、統治機関の長の名称変更を伝える書簡及び布告書で、裁判所という名称の存廃には触れられてはおらず、7月17日以降も「裁判所」という名称は頻繁に用いられている。つまり、箱館府では、「裁判所」という名称が廃止されたとはまったく考えていなかったようである。辞令等を交付する際、辞令交付のため「裁判所」へ出頭するよう指令を出し、「当府局付属申付候事、何月、箱館府」等と記載した辞令を交付しているほどなのである。次の史料などはその好例といえるものと思うので掲げておく。
 
     触書                 (山越内村到着は六月朔日)
  今般当府平定相成候、就ては今十九日より裁判所代として於運上所、諸事取扱候条、市在一同末々至迄、可得其意者也
           巳五月     箱館
                         裁判所
  前書の通被仰出候間、此段相触候 以上
         箱館
          町会所
           下湯川村より
            長万部村迄
             右名主中         (山越内村帳場「触書留」)
  注 この触書は、箱館戦争終結後の明治2年5月19日に「裁判所」を運上所に開くことを通知した触書である。
 
 また、榎本釜次郎らの旧幕府府脱走軍に箱館を占拠された際、箱館に潜居し脱走軍の様子を青森へ報告した者の報告書(津軽藩探索書)にも、「裁判所は五稜郭と唱へ候様町役共へ申送候由」(函館戦史料「胸中記」『函館毎日新聞』)と脱走軍が「裁判所」を「五稜郭」と唱えるよう布告したと記録されており、さらに、脱走軍の降伏後その戦後処理に追われていた明治2年7月4日の提灯規則(明治2己巳年従7月至9月「函府御沙汰留」)でも、高張提灯を立てる場所として、裁判所、議事局、庶務局、刑法局、外国局、会計局、町会所、場所御役所、病院、学校等が上げられ、真っ先に裁判所の名が見える。「箱館裁判所」を「箱館府」と改称後も、「裁判所」の名称が存続して、「裁判所」と「箱館府」が明確に使い分けられているのである。
 つまり「箱館裁判所」という名称の中に、行政機関と行政庁の二面性を認め、閏4月24日の総督の名称変更を、行政機関としての「箱館裁判所」は「箱館府」と改称され、行政庁としての「裁判所」はそのまま存続したとの認識に立っていたということが出来るのである。