名主の仕事

114 ~ 120 / 1205ページ
 名主は村の長として箱館奉行所沖の口番所の命令に基づいた諸検査、書類整備、書類確認、布達の継ぎ送りなどの事務及び村人に対する法令の厳守、諸役銭の納入、村入用諸費の割当、徴収その他に関する仕事をしていた。
名主の仕事内容や項目については前幕府時代の項で記したので、ここでは主なものについて具体的に述べる。)
 
 ○村内布達のこと
 奉行所、在方掛から名主に下渡された布達は、各村の名主から年寄、百姓代、小頭(頭取)などの村役人に連絡され、村民に伝えられるが、必要に応じては名主所(名主の自宅で後の村役場に当る)に村民を集め、読み聞かせることもあった。また枝郷においては名主がおらず、頭取、小頭が村を取りしきっており、普通布達の場合は本村の名主、大切な場合は在方掛から枝郷の頭取、小頭に連絡する方法をとっていた。
 示達後は、示達した旨を記入の上、奉行所へ返却し、確認する方法をとっており、他村へ継送が必要な書面は、直ちに確認の上継送りの手続きがとられていた。
 前記の『御用書留』に次のような記事がある。
 
  一 亀田村名主 鍛冶村名主 同村六郎 上山村名主 赤川村名主 大川村名主 七重村名主 藤山郷頭取 峠下村名主 市ノ渡村名主 本郷頭取 大野村名主 文月村名主 湯川村名主 一本木郷頭取 千代田(郷欠カ)頭取御用状ヲ以申達候。然は別紙名面のもの明十八日御用有之候間、早々呼出候様被仰出候。依之村役人壱人差添、早々御役所え可罷出候。此段相達候。以上
    戌九月十七日未中刻    在 方 掛
  右の通当十八日未申刻亀田村より順達継送り申候。依之即刻上山村え継送り申候。以上
 
 ○諸役人の通行に関すること
 諸役人が公用で通行する際、通過する村々では人馬の継立てを行い、また役人の休憩や宿などの準備を行ったが、これらはすべて名主の責任のもとに行われていた。
 亀田諸村では箱館に近いためか、御用宿が設けられておらず、主として名主をはじめとする村役人の居宅がこれにあてられていたようである。またこれらの賃銭は前松前氏時代は無賃であったが、後松前氏時代になり宿した場合の賄料と一緒に翌年の春にまとめて支払われていた。後述の「馬の利用」の項の通行賄と人足手当米の支給の方法がそれである。
 
 ○宗門改めのこと
 宗門改めは名主の仕事の中でも重要なものであり、『文政五午年四月 箱館申送書并箱館町役人其外在々被下品物書付控 沖之口規定書 全』によれば「一、市中村々六ケ場所宗旨改ノ儀ハ、年々十月相改メ宗旨人別帳為差出来候。」とあり、また『維新前町村制度考』には「亀田・茅部・上磯各郡ハ函館役所ヘ人別帳ヲ出スヲ例トス。故ニ村役人ハ十月頃ヨリ村内ノ宗門人別調ニ従事、調帳ヲ作リ函館ノ旦那寺ニ至リ寺受証ヲ乞ヒ、調書ヲ添テ差出スナリ。」と記されている。
 
 ○ 宗門人別帳の例

明治3年宗門人別帳 鍛冶村 道行政資料課蔵

 北海道行政資料課所蔵の鍛冶村宗門人別帳及び神山村宗門人別帳は左記の内容である。(共に抜萃)
 
   鍛冶村宗門人別帳
  禅宗高龍寺□印 小柳善右衛門二十九才㊞ 母みよ五十五才 娘志げ十九才 弟岩松二十一才 忰豊太郎四才 次男勝太郎三才 娘かや六才
   以上七人の内 男四人女三人 (以下略)
  浄土宗称名寺□印 水嶋三太郎五十九才 妻ちせ四十七才(以下略)
  日蓮宗実行寺
  浄土宗願乗寺
  惣宗門家数四拾四軒 人別合弐百六拾弐人
   内男百三拾七人 女百弐拾五人
右の通宗門相改候処相違無之御座候。以上
  明治三年午十一月
 
   奉差上申証文の事
 此度切支丹宗門就御改当村一々詮議仕候処、紛敷者一切無御座候。若万一疑敷人猶有之ば、早速御注進奉申上候。依て村証文一札如斯。
   月 日
                   鍛冶村名主 柏 谷 作右衛門 ㊞
                     年 寄 小 柳 三四郎  ㊞
                     百姓代 小 柳 平  七 ㊞
         農政御役所
 
  神山村宗門人別帳
禅宗高龍寺□印 吉村清兵衛六十三才㊞ 娘イク四十才
 忰市助十四才 弟松蔵弐十弐才 妹律弐十才(以下略)
浄土宗称名寺□印 亀谷熊次郎四十六才 母み津四十八才
 妻とめ四十五才(以下略)
惣宗門家数五拾三軒 人別弐百七拾五人
 内男百五拾弐人 女百弐拾三人
  右の通宗門相改候処相違無御座候。以上
    明治三年庚午十月
   此度切支丹宗門就御改、当村一々詮議仕候処、紛敷者一切無御座候。若万一疑敷人猶有之ば、早速御注進奉申上候。依て村証文一札如件。
    月 日
                   神山村百姓代 亀 井 富 弥 ㊞
                      年 寄 亀 井 萬 蔵 ㊞
                      名 主 越 田 竹 蔵 ㊞
   農政御役所
 
 ○旅人改めのこと
 亀田地域の村々では、箱館奉行役所在方掛の触示により、名主が中心となり、村役人が取調べを行うか、または在方掛から臨時役人を派遣して取調べをすることもあった。たとえば次のような旅人改に出発した役人の先触の記録がある。
 前記の『御用書留』に、
 
      覚
  一 平井重左衛門 上下二人
     馬弐疋
    熊谷類太
     馬弐疋
     大工棟梁市左衛門 鍛冶頭六右衛門 旅人宿嘉兵衛
  右は在々六ヶ場所船改旅人改として、明後廿五日箱館出立いたし候条、書面の馬無遅滞差出、且止宿、賄等差支無之様取斗可申俟。以上
    戌九月廿三日
                                熊 谷 類 太
 
    在々六ケ場所
       名主
          中
       頭取
 
 ○拝借米の貸付けと返納のこと
 移入米のなくなる冬期間、弱小農民は生活に難儀しており、これを救済する目的で実施されたのが御借米の制度で、米を村に貸し付け、代金を徴収するのは名主の大切な行政事務の一つであった。
 前記の『御用書留』には次のような記事が見られる。
 
        覚
  一 御米五俵 但し四斗弐升二合五勺廻り
                           鍛冶村 六  郎
  右去八月拝借米被仰付、当四月延(迄カ)長崎御廻米代上納の義一昨日長崎役人中より当方御奉行所え御掛合有之候間、当月廿八日迄の内、日限無間違上納可致候。若茅部辺え参、居合不申候はば飛脚差立呼寄せ、早々上納可致候。
  右の通御用席より厳敷被仰付候間、此段申達候。以上
四  月  廿  六  日                       
       在 方 懸
      鍛冶村 名主
            中
          年寄
 
 また『文政五午年四月、箱館申送書并箱館町役人其外在々被下品物書付控 沖之口規定書 全』(函館市史史料編第一巻所収)には次のように記されている。
 
  一 箱館市中并ニ六ケ場所村々ヨリ、冬分夫食米拝借相願候ヘバ、糺ノ上代金上納ノ期月ヲ定メ貸シ渡シ来候
 
 ○牛馬改めのこと
  牛馬改めは前幕時代から毎年亀田、茅部、上磯、山越各郡の地域で行われ、牛馬改めのため箱館から役人が派遣されたが、このとき名主は事前に村内の牛馬調書を作成しておき、後に牛馬所有の者から牛馬税を徴収する仕事をしていた。