短冊状地割と境界について

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図4・3・3 集落配置断面図


図4・3・3 集落配置断面図

 短冊状地割は根崎村字根崎、志苔村字志苔、銭亀沢村字本村、字湊と字古川尻の一部、石崎村字石崎、字中村、字白石と目名町の一部にみられる。短冊状地割は海岸道路をまたいで干場と宅地が一続きになっており、間口は三間から六間、奥行は海岸線から段丘下までで、地形によって奥行は異なる。そのため一区画の面積は奥行の長い場所と短い場所ではかなり差が生じるにもかかわらず、このような短冊状に区画されたのは、区画の基本的な考え方が、面積ではなく間口に基づくことを示している。
 この短冊状地割が、志苔村で干場割渡が始まった一六世紀末期におこなわれていたとは考えがたい。むしろ、当該地点に、干場と宅地を伴った土地に対する権利が承認されたのであろう。ではそれを承認したのは誰だろうか。銭亀沢地区の場合、一六世紀末期段階に松前藩がこの場合の上級権力的な役割を果したとは考えられない。また、疎塊状に住宅が点在した一六世紀末の状況から、干場や宅地を分配する惣村の存在を考えることもいささか無理がある。そこで志苔村において当初割渡された干場と、それに対応する宅地が志苔館南側の場所であったことに注目したい。昆布漁業活動と土地の占有が先行し、干場割渡がその追認と考えられることから、後に短冊状地割に発展する何らかの先行条件が中世期にあり、一六世紀末までに志苔館南側にすでに小規模な集落が存在していたと思われる。しかし一六世紀前半には志苔館は廃絶しており(函館市教育委員会『史跡志苔館跡‐昭和58~60年度環境整備事業に伴う発掘調査報告書‐』一九八六)、志苔館主小林氏の権力を背景にした土地利用は一六世紀中頃以降途切れるので、その先行条件の再開は小林氏の権力に依拠したものとは考えられない。
 ここで思いおこされるのは、志海苔川河口東岸より出土した志海苔古銭である。一方、銭亀沢村の名前の由来として「昔土中より瓶を掘出したるに其中に銭多く有し故地名となれりと」(「蝦夷実地検考禄」『函館市史』史料編第一巻)あり、銭亀沢村からも埋納銭が出土していたことがわかる。この志海苔古銭と銭亀沢埋納銭に挟まれた地域が、志苔館と関係を持つ領域だった可能性があり、また近世初頭以降干場割渡の進行した地域と重なり合うのである。志苔館が永正の乱(永正九年)で廃絶した後、埋納銭に区切られた地域に改めて和人集住が再開したのは、この領域は和人に許されたものだという観念が、先に述べた先行条件として存続していたと考えられるのではないか(古川町に汐泊川チャシがあり、時期は不定だが、汐川付近はアイヌ人の領域であったかもしれない)。志海苔古銭はその埋蔵の状態から備蓄銭と考えられているが、以上から土地に対する儀礼の意味を持っていたとも考えられる(鈴木公雄「出土銭貨からみた中世後期の銭貨流通」・『帝京大学山梨文化研究所シンポジウム報告集 「中世」から「近世」へ』・工藤清春「北日本における中世遺構と埋納遺物について‐考古学資料の地域特性」『帝京大学山梨文化研究所シンポジウム報告集 中世日本列島の地域性』)。
 これは志苔村について考えられる可能性であるが、同時期に成立したという石崎村は中世以来アイヌ勢力と対峙する境界地域であり、その境界がいくつかの戦乱で移動していることから、志苔村とは異なった歴史経過と、その結果としての空間構成が考えられる。
 「新羅之記録」の道南十二館は、一五世紀半ば蝦夷島に北走した津軽安藤氏の政治支配領域に組み込まれており(『函館市史』通説編第一巻)、銭亀沢地区では志苔館があった。このほかに銭亀沢地区では小林氏同族の根崎与倉前館と、戸井に岡部氏のトヰの館があった。岡部氏はコシャマインの蜂起以前に原口へ退転し、トヰの館は「新羅之記録」が書かれた一六世紀初期にはすでに廃絶していたと思われる。トヰの館は現在の戸井町館町付近とされるが、文政四(一八二一)年に館跡から六二貫余の古銭出土が伝えられ、志海苔古銭と同様の意味を持った埋納銭と考えられる(『戸井町史』)。
 トヰ館の廃絶以降、和人の居住は志苔館付近まで西側に移動したと思われ、さらに永正の乱によってこの地域の和人権力は消滅する。再び和人の権力が函館付近にまで進出するのは中世末期で、寛永頃に和人地東在東境が汐石崎に定められた。石崎より東側の小安は、以降和人居住が進み、村並となったが、法制的には石崎が東境であった(榎森進「和人地におけるアイヌの存在形態と支配のあり方について」『蝦夷地・北海道‐歴史と生活』一九八一)。
 和人領域東境の移動は、寺社に関する記録や伝承からもたどることができる。一八世紀前半に「志能り濱之内観音堂 数百年」(「自大澤村至黒岩村二十二ヶ村五拾六社年数之覚」『函館市史』都市・住文化編)と書かれた観音堂は志苔館または与倉前館に由来すると考えられ、「黒岩村観音堂 といの館より神体掘出」の記述は、トヰ館が廃絶の後、黒岩岬付近が東境となったことを示していると思われる。そして黒岩村観音堂が石崎八幡宮に継承されていることから、再び東境が石崎付近に移動したと考えられる。また石崎日持上人が庵を結んだという一二世紀末期や、石崎宮の沢の「鰐口」から、一五世紀中期にも石崎に和人領域のあったことが想像され、沿岸部に点状に散在した和人領域は幾度か移動したのであろう。
 次に石崎村の小字をみてみると、川を境界に西より字石崎、字中村、字白石、目名町、谷地町と並んでいる。字石崎は先に述べたように川と神社・寺院で囲まれた空間構成であり、人口増化にともない東部へと拡大したと考えられる。一方、和人地東在東境に目名町・谷地町など町のつく字名がみられるのは、この東境に交易をおこなう町場的な機能を持った時期があったことの反映とも考えられる。
 このように銭亀沢地区では近世以前の地域状況の上に近世期の集落が再構成されていった。そして、北辺の流通が整備され、昆布が商品産物として確立する一八世紀後半から一九世紀にかけて、短冊状地割は銭亀沢地区の浜一帯に区画されていくのである。