開港・開国をせまり頻繁に来航する外国船の対応に、幕府の苦悩はさらに深いものがあった。以下、幕府が300年続いた鎖国に終止符を打つ直接的な原因となった、1853年(嘉永6年)前後して来航したアメリカ・ロシア船の幕府に対する交渉(幕府の対応)について、かい摘んで述べることとする。
・一八五三年(嘉永六年)六月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが四隻の軍艦を率い浦賀に来航、大統領親書を携えて「日本国の最高官でなければ交渉に当たらない」と幕府に申し入れ、武力を背景に交渉を要求する。幕府は浦賀奉行に命じ、ペリーを久里浜の仮館で引見、アメリカ国書を受理させるが、返答は翌年に引き伸ばす。ペリーは再来を約し浦賀を退去する。
・同年(同年)七月、ロシア使節プチャーチンがパルラダ以下四隻の軍艦を率いて長崎に来航。同年八月、長崎奉行へ国書を手渡し、国交を求める事と、樺太、千島列島の境界画定(国境の取決め)についての交渉を幕府へ強く要望する。さらに、同年、十月、幕府老中に交渉の開催をせまる催促状を送る。
プチャーチン、十二月には長崎に再び来航、軍事力を背景に前にも増して国交の強い要求を突付けられ、長崎奉行もやむなく国書を受理し、幕府応接掛プチャーチンと会見、国境問題には応じる。なお、択捉島については日本所属を主張、樺太境界については双方の実地見分を約束する。
・一八五四年(嘉永七年)一月、プチャーチン、択捉島の日本所属を認め、樺太については南端のアニア港のみを認める書簡を残し八日長崎を出航する。
・同年(同年)一月一六日、アメリカのペリーは、前年の通告通り、旗艦サスケハナ(総トン数二五〇〇、六インチ砲六門)・ポーハタン・ミシシッピーなど三隻の蒸気船を含む七隻の軍艦を従え、将軍お膝元の江戸湾深く侵入小柴沖に投錨し、艦隊の威容を背景に国書の回答を迫る。
幕府は、幕臣の意見を聞き、主だった大名を招集しての会議などを数度にわたり開いたが、徳川幕府の祖法である鎖国攘夷を遵守するという保守派と、世界の情勢から開国もやむをえぬと唱える、いわゆる開国派との意見対立が激しく、明確な結論をだせぬまま日米交渉の日を迎えてしまう。結局、幕府の秘密訓令を受けた全権(幕府海防掛)林〓(あきら)が全てを託され、この重大な交渉に臨んだ。
横浜応接所でのペリーとの交渉は20日間にもおよぶものであった。
幕府側は、第1に漂流民の救助、燃料・水・食料の供給は人道上の問題から、また、これは開国に当たらないという解釈から認めた。第2の提案である「通商条約」については、まず、断った。林は譲歩案として5年後、できなければ3年後の秘密訓令をうけていたがペリーはあっさりと引っ込めた。(「通商条約」については結局、4年後の1858年に結ぶことになるのだが、ペリーは、この見通しを持っていて譲歩したと思われる。)
交渉で一番難航したのがどの港を開くかであった。幕府は、開港譲歩案として伊豆下田1港の腹案をもっていたがアメリカ側は2港の開港を譲らず、幕府は拒否されることを予想しつつ蝦夷地箱館を提案したが、ペリーはあっさりと了承する。
そして、1854年(嘉永7年)3月3日、世にいう神奈川条約「日米和親条約12箇條」がここに締結調印され、210余年にわたる世界に類を見ない日本の鎖国に、事実上終止符が打たれたのである。
アメリカが日本の開国に成功したという情報は、すぐヨーロッパの国々に伝わり、以降イギリス、ロシア、オランダとも条約を結ぶことになる。
・一八五四年(嘉永七年)八月、イギリスと日英和親条約に調印、長崎・箱館を開港する。
・同年(同年)九月、オランダの下田・箱館の入港を許可する。
・同年(安政元年)十二月、ロシアと日露和親条約に調印、下田・長崎・箱館を開港、択捉(エトロフ)島・ウルップ島の間を国境と定め、樺太(サハリン)は両国雑居地と取決める。
幕府は箱館の開港にともない、1854年(嘉永7年)6月、松前藩に命じて箱館および、その周囲5乃至6里(20~24キロメートル)を返上させ、再び箱館奉行を設置。同年9月には、目付の堀利煕、村垣範正に蝦夷地視察(樺太を含むロシアの進出状況)を命じた。
幕府は、堀・村垣の復命書(蝦夷地処分に関する上申)を検討し、翌1855年(安政2年)2月22日、木古内以東、箱館六ケ場所を含む東蝦夷地、乙部以北熊石村を含む西蝦夷地と島々を含め再び幕府直轄地とし、その管轄は箱館奉行とすることに決定した。
この幕府の再直轄は、開国・箱館開港にともなう、外交と北辺警備の強化が大きなねらいであった。1633年以来、2百余年も続いた鎖国令を廃止しての開国である。産業・科学技術・文化・軍事力、全ての面で進んでいるアメリカやヨーロッパの国々の巨船が、蝦夷地の箱館にやって来るのである。松前藩ではおぼつかないと考えるのは当然であるが、また、幕府にとっても外交という未知の分野であった。したがって、箱館奉行の登用には芙蓉間詰(ふようのまつめ)という格の高い位で、外国との対応ができる相当の人物を起用した。定員は2人、後に3人となった。
<在職した奉行> 着任順
竹内保徳、堀利煕、村垣範正、津田正路、勝田充万、糟谷義明、水野忠徳、小出秀実、新藤方涼、杉浦勝誠、栗本鯤、織田信発、橋本悌蔵以上13人
この内、主な奉行について、その履歴を記す。
・竹内保徳 1854年(嘉永7年)箱館奉行。1861年(文久元年)勘定奉行兼外国奉行となり、特命全権公使としてヨーロッパ訪問後、ロシアと樺太国境問題を協議する。1864年(元治元年)大阪奉行となる。
・堀利煕 1854年(嘉永7年)箱館奉行、後外国奉行を兼務。1860年(万延元年)プロシア条約問題で老中安藤対馬守と対立し切腹する。
・村垣範正 幕府勘定奉行から1856年(安政3年)箱館奉行となり、翌年より外国奉行を兼務、安政6年には勘定奉行も兼務する。1860年(万延元年)には遣米副使となり、1862年(文久2年)には箱館奉行の任を解かれる。
・小出秀実 1862年(文久2年)に箱館奉行、後外国奉行兼務する。1866年(慶応2年)ロシア交渉使節となり、同年勘定奉行に就任する。
・栗本鯤 1867年(慶応3年)に外国奉行兼箱館奉行に任ぜられたが、その年、職を辞しフランスへ赴いている。奉行としての業績はないが、藩医であり薬草学者である栗本は1858年(安政5年)官園七重薬園を経営、杉・松の種子を佐渡から取寄せ苗を育て、五稜郭や大野・七飯(現国道5線)などに移植。また、医学所(病院)を開設。1862年(文久2年)に箱館奉行支配組頭を務める。後、昌平黌頭取、目付、軍艦奉行を務める。
・杉浦勝誠 1866年(慶応2年)箱館奉行、翌年勘定奉行を兼務し、慶応4年4月箱館奉行所廃止まで奉行を務める。
以上、主だった6名の奉行の履歴に触れたが、このように、外国奉行や勘定奉行などの幕府の要職を兼務するほどの大物幕閣を箱館奉行に任命したということは、先にも述べたが、外交という未知の分野を抱える蝦夷地の経営、とりわけ北辺警備が、幕府にとって最も重要な課題であったということである。