榎本政権の統治

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 北海道・蝦夷地の行政府箱館奉行所は、1868年、慶応4年4月12日明治政府の「箱館裁判所」開設にともない、廃止され、同年、閏4月27日には杉浦旧幕府箱館奉行より、着任した箱館裁判所清水谷総督に政務の一切が引き継がれたが、6か月後の、明治元年(9月8日より元号明治)10月25日、箱館戦争で清水谷らは青森へ逃れたため、北海道・蝦夷地の統治は榎本(脱走軍)政権が取ることになる。
 この榎本政権が出した「触書」の内、その、2通(慶応三、觸書留 北海道大学蔵)が存在する。
 
歩兵頭古屋作左衛門 森を本陣といたし川汲(南茅部町)より山越内(八雲町)まで海崖筋村々並び峠下(七飯町)江兵隊出張いたしおり候に付非常其外臨時御用向等同人より申付候節者聊無差支取斗可申候且又兵隊之内心得違之者有之若右村ニおゐて民家へ對し不法之取業およひ候願或は押借其外金策ク間敷儀いたし候無用指揮置森村本陣へ可申立候此旨小前末々まて不洩様可触知もの也。
 亀田御役所
 己二月廿九日(一八六九年 明治二年) 亀田村より山越内村迄
 
 「触書」の1つは、1869年(明治2年2月29日)、亀田御役所から、亀田村より山越内村までの村々に駐在している役人(榎本軍兵士)へ行政区域についての通達で、この地域の統治は、森を本陣として、古屋作左衛門が責任者であることが示されている。榎本政権は町奉行として、箱館・松前・江差の3奉行を設置しており、この地域は箱館奉行の管轄になるのであろうが、箱館は人口も多く、また、地域も広範囲になるため、亀田村から山越内村までを森本陣(出張所)の所轄としたと推察される。
 なお、この文面では、尻岸内・戸井・小安尾札部椴法華)が森本陣の所轄になるのか否か明確でない。幕領が箱館奉行所所轄であったことから考えれば、榎本政権でもそれを踏襲したと推察される。(歩兵頭古屋作左衛門は箱館病院頭取高松凌雲の実兄である)
 
当嶋出産之煎海鼠干鮑之義者 全国より違ひ品位宜敷別而外国ニ而懇望者素より之事ニ而 先忘長崎俵物を唱へ外売買御差出ニ候へと 近年外国人の入込当所ニ而売買候得共 自然土地繁栄可相成義と格別之御宥免を以 勝手売買御差免ニ相な何斗も難有相心得隠者等ハ波而無之筈之処 聊之御役銀を厭ひ書状外之密売致し候ものも有之哉ニ相聞 其上売品目当も無之外国人江約定之ニ前金も請取品不相渡候ニ付終ニ者混雑を生し及訴訟候族も有之不埒之至リ候 依之右品々取扱所取立御配締者勿論商人共難渋不致様能法相立候間 当嶋出産之より其外内地より積来分共明歳売買之度々産物会所江可罷出而得差図若密商等以致し候もの於之者売人買人共急度可申もの也
 箱館本陣     会計書
 
 「触書」の2つめは、箱館本陣(内閣に相当する)会計奉行から村役人、直接的には漁師・海産物取扱い商人に出されたもので、日時は記されていないが1869年、明治2年2月から5月の間と推定される。これには海産物、特産の長崎俵物煎海鼠干鮑)に触れ、その、密売や取締と御役銀(税)制度を示し、また、産物会所を設けることなどが述べられており、榎本政権が短期間の間に、生産性の高い漁業に目を付け、財源確保のための政策を打ち出していることが分かる。
 また、榎本政権は洋式の近代農業を取り入れる試みもしている。結果的には我が国の植民地化を招きかねない失政となったが、プロシア人(ドイツ)ガルトネルに模範農場を経営させるため、七重村に99年間の租借を認めているなどもその1つである。現在も、七飯町上藤城の国道5号線沿いにガルトネルのブナ林として残っている。
 なお、この榎本の北海道への洋式農業導入は、明治政府・開拓使によって引き継がれ、その拠点も七重村となっている。また、同年7月8日、蝦夷地の行政府は開拓使と改称され、本庁が札幌に移されるが、これも、榎本政権の開拓奉行の設置、拠点を中央部(榎本は室蘭)に置いたことと妙に符合する。
 
箱館府の再支配
 1868年、明治元年10月25日箱館戦争のため青森へ逃れていた清水谷箱館府知事は、翌年の1869年、明治2年5月18日榎本軍の降伏により、同19日箱館へ帰任、箱館府は再開され清水谷府知事のもと再び行政事務を行うことになる。
 以下、その触書である。(觸書の箱館府は役所名、裁判所は庁舎名として用いた)
 
   觸  書
 今般当村府平定相成候 就而者今一九日より裁判所代として
 於運上所
 諸事務取扱候 条市在一同末々至り候迄可其意者也。
 箱館
 己五月(一八六九年 明治二年)   裁判所
 前書之通被仰出候間此段相觸候以上 箱館
                町会所 下湯川村より長万部村迄
 
 再開された箱館府が行った業務は、箱館戦争についての被害状況の調査と被害者に対する救済活動、米の無料配布や低価販売、救援金の付与、この年の箱館市在の諸税の免税などを実施する。また、榎本軍によって使用された通貨(贋金)の回収と一部商人に認められた特権の廃止など戦後処理に精力的に取り組むが、同年7月8日開拓使の設置に伴い7月24日に箱館府は廃止される。再開後2か月余り、箱館裁判所から箱館府と改称、機構改革を行い業務を遂行してきたが、十分な成果を上げることができず、通算1年3か月あまりで、明治政府蝦夷地最初の行政機関、箱館府は廃止となる。