海を渡ってきた人々は、当然の事ながら、食料は自給自足しなければならなかった。
魚介類は豊富に手に入ったものの野菜類はすべて自力で栽培しなければならず、彼等は、漁の合間を見てはせっせと裏山を耕した。松前藩や箱館奉行も積極的に住民たちに田畑づくりを奨励した。それは、ただ単に(徴税のためではなく)食料の増産のためという事であったのだが、農地を捨てた漁民たちは、それが年貢(ねんぐ)の対象となることをを嫌い、いわゆる「隠し畑」として耕作してきた。従って、漁民たち自らの農耕の記録は見当たらない。
農地の実態 『松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)より』
弘化2年~4年(1845~47)松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)の記録の中から農地に関わる記述をひろってみる。
「磯屋村(御崎) 人家十二、三軒。皆漁者」農地・農民の記述なし。
「根田内村(恵山) 人家四十軒、小商人四、五軒」農地・農民の記述なし。
「古武井村(古武井) この村の支配中五十軒もある。小商人二軒、漁者のみ」農地・農民の記述なし。
「尻岸内村(大澗・豊浦) 人家十余軒。小商人一軒、漁者のみ也『上に少し畑有』」
「日浦村(日浦) 人家七、八軒。小商人一軒。『漁者にして漁事の間には皆山稼ぎのみなり。また、川端に薪を多く切り出したり。また、上に畑有。村の者皆冬分は山に入りて冬木を切ること也』」
この記述から、120軒余りの住人は、皆漁師であるが尻岸内、日浦には目に付く程の畑があり、農業も行っている。また、日浦では漁師が林業を兼ねていることが分かる。ただ、百余軒もの住居がある恵山・古武井についての記述はない。ここは、海辺に沿った道であり、武四郎の目に畑は写らなかったのではないか。尻岸内、日浦の実態から推して、御崎はともかく、恵山、古武井では段丘上に平坦地があり、耕地はあった筈である(後述の箱館六ケ場所調べで推察すれば)。なお、この日誌では、産物として、「鱈・昆布・鯡・数の子・油コ・カスベ・比目魚(ひらめ)・ホッケ・鱒・鰤・海鼠(なまこ)・海草類・貝類など」が記録されており、また、部落に小商人の軒数と品名、「只酒、米、煙草、草鞋(わらんじ)を売るのみ也」が記されている。150年ほど前の故郷の人々の食生活は、米、酒、調味料は商店で購入し、おかずは相当豊富な魚介類が食膳を賑わしたであろうし、野菜は僅かな平地を耕し栽培し、背後の森林や沢地に自生する四季折々の山菜をつんだりして賄っていたと考えられる。
なお、この蝦夷日誌、戸井村の項では、「畑少し有。又漁時の暇には耕作をなし、傍ら山稼をするよし」とあり、土産に「野菜もの・薪・炭を多く焼出すよし」と記述されていることから、戸井村の住人は漁業を主とながら農業も営んでいた人達がいたことが分かる。また、野菜類・薪・炭が、商品として流通していたのではないか、炭焼きについては、仕事の性格上、専業者がいたのではないかと推察される。
郷土の農地としての適性については、安政4年(1857)4月、箱館奉行堀織部正利煕の視察に随行した玉虫左太夫が『入北記』(蝦夷地・樺太の巡視報告書・当時の実情を論評した重要文献)のなかに女那川流域を次のように記し、水田最適地と評価している。『さて此の沢(女那川流域)広さ十五六丁もありて地味も宜しく、尤西北山を構え東南開濶、墾田最上の土地と見えたり。南部出生の者両人開墾いたし居る由。』
また、この流域には既に入殖者が居た事実も記述されている。
作物の状況 『田中正右衛門所蔵文書、箱館六ケ場所調べより』 嘉永7年(1854)箱館六ケ場所調べ
この文書は、箱館の富豪田中正右衛門が所蔵していた文書(もんじょ)で、松前藩が、箱館六ケ場所(小安から野田生までの下海岸・噴火湾沿岸)の村役人に命じて行った総合調査の記録である。詳細については箱館六ケ場所の項で記述することとするが、この目的は北辺防備のための実態調査にウェートがあったように推測される。したがって食料の調達は重要な課題でもあった筈である。
この文書(もんじょ)から農産物についての記述を抜き書きして見る。
嘉永七(一八五四)甲寅年三月
〈調査項目〉
六ケ場所の神社庵室并御備品家数、人別蝦夷小家数人別出産物同直段、川々山林温泉場澗泊り山道越、御小休所網船牛馬有高調子書上
日浦
乍恐以書付奉申上候
去丑年(嘉永六年 一八五三)御改
*一、野菜物之外 畑作無御座候
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内持 日浦 小頭 助五郎
尻岸内
乍恐以書付奉申上候
去丑年(嘉永六年 一八五三)御改
*一、野菜物之外 畑作無御座候
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内 頭取 利喜松
小頭 福太郎
御百姓代 平四郎
古武井
乍恐以書付奉申上候
去丑年(嘉永六年 一八五三)御改
*一、野菜物之外 畑作無御座候
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内持 古武井 小頭 半兵衛
根田内(恵山・御崎)
乍恐以書付奉申上候
去丑年(嘉永六年 一八五三)御改
*一、野菜物之外 畑作無御座候
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内持 根田内 小頭 乙右衛門
松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)では、御崎、根田内、古武井について、畑についての記述はないが、この箱館六ケ場所調べでは、根田内、古武井を含む全地域で『一、野菜物之外 畑作無御座候』と記載されており、「野菜物(根菜・葉菜・果菜)」が生産されていることが分かる。また、「外畑作無御座候」については、野菜物以外の米麦・豆、雑穀類、芋類、菜種など、いわゆる課税の対象となるような作物の収穫はないということであるが、同調べによれば、牛馬の飼育も相当数有り、また、魚粕等、肥料も入手しやすかった筈である。実際には米以外の主要作物である五升芋などについても、相当栽培されていたのではないか。申上人がそれぞれの部落の役職者、つまり地元の人間である事から、手心を加えた報告書になっているようにも思われる。