[松前藩時代の下海岸のみち]

1030 ~ 1031 / 1483ページ
 函館から東渡島の津軽海峡に面した沿岸一帯、郷土恵山町・恵山岬辺りまでを下海岸と呼ぶ。『下(しも)、上(かみ)』の区域については、もともと松前を中心に西側を上、東側を下と呼んでいたようである。それが、幕末から明治には、函館を中心に西を上、東を下と呼ぶようになったようである。明治初期に書かれた『函館月次風俗書補拾』にも「下(シ)モ在とは銭亀沢、志のり、小安等の諸村也」と記されている。
 この下海岸には、古くから海の幸を求めて東北・下北地方から多くの和人が入稼、あるいは移住して昆布の採取を行っていた。元弘4年(1334年)、僧玄恵が書いた『庭訓往来』の中に諸国の名産として蝦夷地の「宇賀昆布・鮭」(宇賀・小安ウンカ川付近)が記されていることからも、それが頷ける。また、玄恵は当時、流行しだした芸能・狂言の台本「昆布売り」を書いており、昆布が一般に食されていたこと、その流通が蝦夷地から日本海を経て若狭・小浜を経由していたことが分かる。
 昭和43年(1968年)志濃里館付近から3個の大甕−その1つは能登半島の珠洲窯製である−に入った37万4千余枚の貨幣が発掘され、そのほとんどが中国貨幣であった。このことは、14世紀後半から15世紀には、この地域、下海岸に和人の集落が形成されて、大量のお金を必要とする生産・交易が行われていたことを物語っている。
 松前藩は、この地、下海岸・陰海岸(噴火湾沿岸の南部)をアイヌの居住地の蝦夷地としながらも、豊富な昆布に目を付け、家臣らに知行地として与えたことから、漁業を営む和人の入稼や定住も多めに見られ、人口増も進んできた。幕府は、この松前藩の莫大な漁業収益に目を付け、蝦夷地の警備手薄を理由に、寛政12年(1800年)箱館奉行を設けこの地を幕府直轄とした。そして、これらの点在する集落を村並化し「箱館六ケ場所(ヲヤス・ト井・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノタヲイ)」と呼び、日本人の居住を正式に認めた。これらの集落は漁獲物の集散する商い場所となり、村役人の会所や駅逓がおかれ、箱館や松前の商人がやってきて旅籠なども建ち、集落としての体裁も整ってきた。しかし、交通といえば、干潮時に磯伝いの道、満潮ともなれば踏み分け道、山越えは“ししみち”、川越は浅瀬を渉るかアイヌの渡し船を利用するといった状態であった。ただ、この時代、後に「ドサンコ」と呼ばれる、本州から連れてこられ冬季間放牧され野生化した小型馬が、物資の運搬や峠道の往来に重宝されたとある。もっとも、重要な海産物については、商い場所はすべて海辺にあり、商人の海産物の買い付けは弁財船で、漁師らは磯舟や蝦夷舟(モチップ)を持っており、不便を感じることはなかった。高田屋嘉兵衛の文書には、冬季間「箱館から江戸まで、新鱈を3日3晩で運んだ」と記されている。
 1つの見方として、海上交通・船便の便利さがこの海岸一帯の陸上交通・道路開発を阻んだとも言える。