松浦武四郎

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 武四郎は北海道の名付け親として知られている。伊勢の人で文政元年(一八一八)生まれ。
 諱は弘、字は子重、幼名竹四郎、後年、武四郎の文字を使う。号は多気志楼ともいう。弘化二年(一八四五)箱館に渡り、東蝦夷地から千島樺太を踏査して、蝦夷日誌を著して幕府に上る。
 明治二年(一八六九)、北海道の国郡名を選定、「箱館」を「函館」と当てる。明治二一年(一八八八)没、七一歳。
 
     蝦夷日誌  巻之五    五十瀬 松浦 弘著(市立函館図書館所蔵)
 此処鷲ノ木村、森村を出立して、砂原臼尻尾札部より村々箱館への順路を記す。則我乙巳八月廿一日森村に止宿し、廿二日の朝よりを筆はじめとす。
                (略)
 
  トコロ川
     此川臼尻、シカベの境なり。越て岩石原少し行て
  トコロ
     夷人小屋一軒。昆布取小屋左右に多し。少し行て
  五段瀧
     此下を瀧の下と云なり。此辺左右五、六丁の間大石山にして、海岸皆岩磯。汐干の時は岩磯の上を行に至てよろし。汐満れば甚難所なり。又風有波荒き時は、中々通行なり難し。又岩磯に海草多し。海鼠幷に東海婦人(シユリカイ)等多く有なり。
     此処怪岩重畳として壁立数十丈、是に瀑布あり。下より見る時は幅凡岩根に当て沫泡飛散る処三丈余にも見ゆるなり。二段目より上は纔に六、七尺也。則磯船を頼て壱丁斗も海へ出て是を見るに、瀑布五段に見へ人の工を入れざる処にして、喬木巨樹枝を接へて涼気颯々として又内地の風景とは別なり。
     故に禿筆にて其あらましをしるし前に置もの也。
ボロ
   人家壱軒、夷人也、昆布小屋二、三軒有なり。大岩の上を飛こへはねこへ行
大岩
   高凡廿丈とも思ふ黒き岩あり。故に号るものなり。
   此処より海岸道なし。故に此大岩の傍より九折に上り行。凡二、三丁にして峠に至り、此処よりヱトモ、モロランよく見ゆる也。又九折を下りてヲムシヤシヤムに下る。
   扨、大岩より岩石つたひ船にて行ばしばしにて
クロワシレ
   幷に
クロワシレサキ
   巡りてしばし
ヲムシヤム
   に到るよしなり。
然し此間は我は山道を通りしまま聞ままをしるし置ものなり。
   扨、ヲムシヤシヤムに到る。是より平地陸道有なり。しばし行て昆布小屋有。
クニヤシユマ
   此処をクニヤ島といへども此処島はなきなり。シユマは夷言岩のことを云なるべし。
   陸の方立木原にして陰森たり。岩磯を行ことしばし。
磯屋
   人家二軒、夷人壱軒有。然し夏分は昆布取にてにぎ合へり。故に出小屋のみならず、また小商人も多く此処に出張るなり。
   此村より少し人て温泉あり。其処に小き笹小屋を一軒立たり。平日湯守もなく、入湯人来りて小屋懸をいたし候よし。
   功能
   疝気 疹 疥癬 切疵 眼気 積聚
   瘤飲 其外はれものに一切よろし。
 
扨、此処にて一宿を致しけるが、其湯玲瓏として清潔云んかたなし。定て玉気なるかとぞ思はる。其夜余が此小屋に宿せしと聞て、昆布取小屋のものども酒肴を携へ来り、四方山の話し等して其夜の東雲頃迄榾火にて鮮魚を炙ひては食、只明がた一睡して出立しけり。其時に及び草鞋代として、当百三枚を右昆布取どもより余に送り呉けり。又一人の者よりは上々の昆布の中程を三十枚斗、途中徒然の時に喰べしと云て送り呉ける。其心切中々筆するに尽しがたし。
扨、帰後我勢の山田三郎なる者、彼国に仕官致される故に、逢て此温泉の話しを致せしかば、同人も彼湯には一度行れしとかや。其功実に疝気には験有とぞ。又其湯玉気に相違なかるべきは、三尺四尺の底に壱粒の米を入るとも分明に見ゆるよし話されたり。又箱館の深瀬鴻斎老の話しに此山中に白石英多しと。其余さま゛/\の石有よし也。又鹿部村の温泉も功能多きよし。然し是は塩気にて涌ものかと語られたり。其証とすべきは二里山奥に在るに、潮の満干にて温泉の熱くなりぬるくなるよし語れたり。我諸方にて温泉の考聊有るに、如此湯は豊後浜脇の湯、飛騨の下呂の湯等也。是皆潮の満干によるよし。浜脇は海辺なれども下呂においては五、六十里の山国なり。其故なれ共潮時にて其如減有事神のごとし。又洪水にて水増る時も同じく熱する也。
ケムシトマリ
   転太浜。昆布小屋有。此処鹿部、臼尻の村境なり。少しの船澗、岩磯なり。従沼尻境柱五里二十五丁。少し坂を越て
   岩磯伝ひ
クマトマリ
   人家十七、八軒。小商人壱軒。昆布小屋多し。村中に小流あるなり。
ヒロトマリ
   越て砂浜少し行
ヲタハマ
   訳て砂浜なり。昆布小屋有。道よろし。山近し。木立陰森として巨材を出す。
扨、昆布小屋のことをあまり多き様に閲(ミル)人は思ふべけれども、此辺りに箱館西在并箱館町内、大野在中より出稼の人は中々すさまじき事にて、其多き年には浜に小屋を建て是に住居し居るに、其取りし昆布の干場もなく、やう/\と壱人前七尺位又は八尺九尺位より当らざる村も有べし。是にて其繁華を見るべし。本邦にて松前にては古来より昆布にて屋根を葺と云は、皆此屋根の上迄昆布を干したるを見てかとも思はる。委敷は産物志に出す。
大船川
   小流なり。越て
二艘トマリ
   図合船懸り澗也。岩磯伝ひ越てしばし行て
ヲヒカタ
   此処大岩重りて、海岸の風景よろし。此処岩石の色赤黄の色を帯。是より十丁斗も山に入、硫黄山有よし。又鉛気も多し。其翌々丁未(弘化四年)の夏此処に到りて見たるに、鉛気岩間に噴出し、此処にて吹出さば数日を不待して大利を得べし。如何斗志無世の中と云もあまり有べし。其鉛山と云は世間の様に敷を掘て出すの等と云こと無、其山の岩石を打砕て吹別る時はよろしかるべきやに覚ゆ。是より海岸道なし。右の方九折を上りしばらくにして

   に到り下りて臼尻の入口に至るなり。
   扨、土人に聞に此ヲヒカタと云より、左り海岸より船を雇て行時は、岩角大難所。しばしにて
ヤシヤシリ峠
   廻りてしばし内に入るやいなや、臼尻村の入口にて上道に出逢ふなり扨小石浜少し越て
臼尻
   人家五十余軒。小商人二、三軒。皆漁者なり。尤旅籠屋も二軒あり。然れども鱈漁の時は随分繁華也。
   前に弁天島と云有。風の最様により図合船此左右に懸る也。又村内に
辨天社
   美々敷建たり
制礼 幷に
庵寺
会所 有
   新鱈の時分箱館より在方懸り壱人、下役弐人出張す。尤金銭廻り甚よろし。又此処に新鱈と申隠妓有也。砂原の部に委しく致すが故にここには略しぬ。
船澗
   八百石位迄の船七、八艘も懸る也。尤東風悪。然し碇懸りは岩にてよろし、此弁天島の左右風順にてかかるなり。千石以上は村より弐丁も沖に懸る。村内小流有。
 
寛政十二申年改
一金百拾両二歩   臼尻村 四月一歩納 九月九歩納
 金拾二両二歩村割 拾二両二歩夷人歩役
 但し村割金文政元より家数も倍し候間相増し、二十五両づつ上納の事
一金六十両 新鱈冥加 其余は豊凶の事
蝦夷地行程記
      従シカベ       サメトリマ     五丁二十間
      従サメトリマ     シシベヘ      六丁五十三間
      従シシベ       サル石へ      五丁二十間
      従サル石       トコロ川へ     七丁二十間
      従トコロ川      トコロヘ      四丁
      従トコロ       瀧ノ下へ      一丁卅間
      従瀧ノ下       ホロヘ       十五丁廿間
      従ホロ        大岩へ       二丁廿二間
      従大岩        クロワシリヘ    三丁廿八間
      従クロワシリ     クロワシリサキヘ  二丁廿三間
      従クロワシリ岬    ヲムシヤシヤムヘ  四丁三十間
      従ヲムシヤシヤム   クニヤシユマヘ   五丁四十間
      従クニヤシユマ    イソヤヘ      七丁五間
      従イソヤ       ケムシトマリヘ   七丁廿間
      従ケムシトマリ    ヒロトマリヘ    八丁
      従ヒロトマリ     クマトマリ     十七丁十八間
      従クマトマリ     ヲタハマヘ     四丁五十六間
      従ヲタハマ      大船川へ      七丁廿七間
      従大船川       二艘トマリ     三丁廿三間
      従二艘トマリ     ヲヒカタ      四丁二十間
      従ヲヒカタ      ヤシヤシリサキ   五丁一間
      従ヤシヤシリサキ   臼尻入口      十三丁廿五間
      従         出口        九丁五間
土産
   鱈 昆布 鰤 鯡 数の子 鱒 油コ ホッケ 雑魚 鯣 雑魚類多し 水よし
尤、右の内新鱈を当所第一の産物とす。尤昆布は夏漁にて当所の金銭廻りになるといえども、上への収納に左程ならざる由也。然し此近年は棹一本に付折昆布何束と定めて取立る事なり。又十年前より此辺に鰤魚多くよせ来るよし也。然し此辺近年までは鰤を捕る仕懸をしらず其儘打捨置候よし、残念と云も余有事也。然るに近年箱館役人松山斧右衛門と申者、能登の国へ右鰤網を巧者にいたし候者を頼に遣し、始る其年に松山氏死去いたし、其鰤網師も当地に来り其儘にいまだ手を空しくして居りしが、去る戊申年に八月中旬両三度此澗に魚多く寄せ来り、如何にも其仕懸はなし、鱒網を人て凡四千本も取りしよしなれども、かかる大魚に鱒網を入し故に、右臼尻より尾札部迄の鱒網一条として損せざるはなし。皆すん゛/\に破裂たり。今此処にて金引苧二十五両分斗、糧米五十俵、人足日雇賃十七、八両代、元手を仕込候人有レ之候はゞ若干の利を得べきに、兎角此地ハ疑深き土地風故に誰も其を仕込候ものなしと語りき。
扨、其翌年よりは金引苧纔五両づつさへたし行ばよろしきよしを聞侍りけるまま、しるし置ものなり。
辨天社
   村内に建たり。華表美々敷幷に社壇等、漁猟繁昌の為に村々より建立せし故に、かかる僻地にもかくのごとき処有かと眼を驚かせり。
辨天島
   村の南のはしより舟にて渡り、周廻二丁斗。岩角重畳々として一島をなす。上に小祠あり。島の周廻布海苔・紫海苔・ムイ・東海婦人等多し。
   深頼鴻斎なる者羽州米澤の人、当時箱館に在て医を業として此臼尻村に両三年も住したりしが、物産に志有て此山中委しく穿鑿致せしに、山奥二里斗にフルヘと云に石黄出る処有て是を製せしに、白銀・朱砂出るよし語りける。其品尤上品なりとかや。
カク子シユマ
   小石浜なり。越て
ヒヤミヅ
   小流れ川有。此辺惣て昆布小屋立並たり。去る丁未の夏昆布最中には、小商人・煮商店・妓・三味線引・祭文よみ等群集して、江差の浜小屋のごとく群集し、松前にては昆布にて屋根を葺と云は初て此辺にて解したり。其群集の時朝六ッ頃より舟にて出、八ッ過に帰り、浜はをろか山根迄干して暇なき故に、小屋の屋根迄も干こと也。故に云しものか。少し岬の上野道を越て
イタキ
   人家二、三軒。転太石濱少し行て
清水川
   人家五、六軒。同浜つづきなり。尤昆布取小屋多し。小流あり。傍に松の木二、三株あり。川歩行渡り此辺り山根に三、四丁も有。少し畑もあり。然し石多き土故に野菜等甚よろしからず。しばし行て   道の傍に
明神社
   此処河汲、臼尻の境なり。越て、鹿部村領分境より是迄三里七丁二十七間
河汲村
   従シヤウス川半里と云リ。人家二十余軒。小川有。此左右に建並ぶ。尤此何沢奥深し。委しくは巻末に誌す。小商人一軒。漁者のみなり。村内に産神の社あり。
丁未(弘化四年)の夏五月十八、九日頃此村に来しに、麦のまだ筆穂をぬきんでたる斗のものを見たり。尤其耕り方を問ふに、種を卸せしより取入る迄一度も手を入ると云事もなくしておくよし語りける。扨其土は肥沃もせざれども、一年に纔一度の作なればなるかと思はる。内地にては麦の中へ綿を蒔、又は蕎麦を蒔、大根を作り、藍を作り、其外黍・粟等をも作るに至りて、三作にも及ぶべし。此地に耕さずしてかくのごとくよく出来るも一作なればかと思はる。村の畑に隠元豆、馬鈴芋 大根 稗 粟 小豆 茄子 大豆等よろしと。
ツキアゲ
   人家有。転太石濱よろし。此辺に至りて広場少し有。畑有り。前にしるすごとき野菜を作る。昆布小屋多し。越て
チヨホナイ川
   小流あり。昆布取小屋あり。転太石濱也。此辺より人家少しづつある也。越てしばし行
尾札部
   川汲村より三十丁余。浜つづき平場也。人家八十軒斗。小商人二、三軒。漁者のみなり。然し畑は沢山にもなけれども少しづつ耕す。
産神社
   有 幷に
制礼
会所 有。
村内に在。
   飯田助(與)五左衛門に宿す。此家二代程会所を相勤、家も富栄へけるよしにて、庭中泉水・築山等をこしらへ有たるに、頗るよろしき風景なりき。此家の兄飯田隼太なるもの東都の岡田十松の門人にて、頗る剣術の名人なりと。後数度松前にて逢て話しを聞たり。
寛政十二申年改
一金百十五両   尾札部村 四月一歩 九月九歩
 三十五両村割 拾二両二歩夷人歩役但、夷人歩役金十二両二歩の処、文化六巳年疱瘡流行に付、夷人七、八分死失候に付、願に依て翌年より八両づつ相納候処、其後又々夷人死失、残り夷人子供のみにて稼方もの一向不足に候由、依て金五両宛相納。
一金六拾両  新鱈冥加 其余は豊凶
 右の外鱈釣壱艘に付、弐人乗五束づつ如
 
蝦夷行程記
      従臼尻       カク子シュマ   二丁五十間斗
      従カク子シユマ   冷水       二丁五十六間
      従冷水       イタキ      六丁十間
      従イタキ      シヨウシ川    四丁二十間
      従シヤウシ川    明神・河汲へ   廿二丁十二間
      従河汲       ツキアケ     七丁三十三間
      従ツキアケ     チヨホナイ川   三丁十一間
      従チヨホナイ川   尾札部      八丁四十間
是迄は海岸道なき処は野へ廻り等して馬足立候なり。是より立ず
土産
   鱈 昆布 鯡 数の子 鰤 鰯 油コ ホッケ 比目魚 海鼠 椎茸 カスベ 鱒 海草類多し。水よし。
此村の会所前少しの船澗なり。五、六百石位の船七、八艘位かかる也。然し暗礁多く、到てあやうき処なりと。然し山皆立木にして西の風にはよろしきよし。
扨、村より舟を雇て出立せんと別れを告ければ、家の老母の申されけるは、椴法華は恵山の下にて候間、若山焼でも有らば大事なるが故に、決して彼村にてはらぬように致さるべしとねんごろに申呉られける。始の程は少し可笑しく覚けれども、当六月には恵山焼出して彼村よりは子供老人等は、皆舟にて他村へ行しと聞て始て驚きたり。然るに其翌七月にも恵山焼崩れて人死し、人家の潰等有しこと等を後日思ひ当り、其時に可笑思ひしは余が血気のあやまちにぞありける。
扨右の方海岸を眺望しつつゆくに
カケ
   此処少しの岬なり。廻りて
クロワシサキ
   幷に
ケンニチ
   少し岩岬にて立木原也。越て
シマリウシ
   大岩立重り、此上の処に道あり。越て
バンノサワ
   少しの坂を越て此処に出る道あり。嶮路なるよし。海岸より見るに怪岩重畳たり。
ヒカタトマリ。
   人家三軒。此処少しの船澗にてヒカタ風よろしき船澗也。是より坂をこへて
ホツキナウシ
   坂を下り夷人二軒有よし。船中より見る。
白ヒ川
   温泉まざりの小川なりと。両岸壁立奇巌重りて山となり雑樹陰森たり。
ヲカツ
   山の端道なるよし。甚難所なりと。
ソイクチ
   同じく一歩を過たば海岸に落るとかや聞けり。
立岩
   奇石怪岩立並びたり。少しの沢也。滝の如き急流あり。樹木海面に覆ひて、海上より見るに人住べき所にも見へず。
古部
   尾札部より海上一里、陸道二里、甚難所也。海上より此処を見るに、山の間纔の地に人家六、七軒住居して、中々人の住べき処とは思はれず。是より都て一歩として先へは行がたきと聞り。御用状等皆此処より盪(オシ)送り、風なき日は此村より遣すよし聞り。岩岬を廻りて
大瀧
   少しの滝有。
ハンノ澤
   越てしばし行て
屛風岩
   屛立数十丈、岩面屛風を立たる如し、岩さび紫・赤・青・黄等の色を現し、岸に白浪のよするさま如何にも異なりとす。暗礁多くまた海帯・海草等多きよし。
ウノトリ石
   岩の頂上に鵜のふんにて白くなりたるが故に号るなり。
   此あたり西南の岬にして波浪烈しく辛じて岬を廻り此処まで東南に舟を向ふなり。
ヒカタトマリ
   此処まで西南に船を向ふなり、又岩陰に図合船のかかり澗有。又是より北へ舟を向ふ。廻りて
アイトマリ
   アイの風に懸るによろし。故に号るなるべし。此処まで岬より岩壁つづきにして皆仰見るごとき高岩のみなり是より浜道有。
矢尻濱
   白砂浜にして山根へ三、四丁有。上陸して是より歩行にて行也。浜道をしばし行て、此辺より矢根石多く出ると聞り。
矢尻川
   歩行渡り。恵山の北の方より流れ来るが故に、硫気有て小魚一尾としてなし。又此沢目を上る時は明礬取り居るよし。又夷人の跡有。
スノ川
   此川尤酸し。細流れ。尤恵山より落来る故也、歩行渡りこへて
シユマトマリ
   人家二十余軒。漁者のみ。小商人壱人有。海岸に枕て家居し皆虎杖をもて垣とす。従尾札部海上四里ト聞り。
三軒屋
   村の端なり。今は六軒程も有也。昔しは三軒有しが地名となる。皆小石浜也。
宮の下
   転太石浜なり。上に産神社有。此村に出羽の国より明礬取りに来りし者住居せり。其話に此処の明礬は世間に出るものより一等よろしく、其故は山肥たればなりと云れたり。又別に蘆眼石と云ものを出す。其性見ざる故に記さず。其余丹朱砂・白石英の類多しとかや。
 
椴法華
   シュマトリより半里。転太石浜にして歩行がたし。人家弐十余軒。小商人壱軒。他は皆漁者のみなり。
   少しの畑もなし。
  制礼
   あり。又此村にも昆布新鱈帳面等も有べけれども未だ得ざるまま記さず。実に残念と云べし。
  土産
   鱈 昆布 鯡 数の子 油コ カスベ 比目魚 ホッケ 鱒 鰤 馬なし。水よろしからず。硫黄 明礬 海草 海鼠 鉛も多きよし。
 
蝦夷地行程記
      従尾札部      カケヘ      四丁四十間
      従カケ        クロワシサキヘ  三丁廿五間
      従クロワシサキ   ケンニチ     二丁四十三間
      従ケンニチ     シマリウス    十丁五十二間
      従シマリウス    バンノサワ    六丁二十四間
      従バンノサワ    ヒカタハマ    一丁五十間
      従ヒカタ濱     ホンキナウシ   三丁三十六間
      従ホンキナウシ   黒岩へ      二丁五十一間
      従黒岩       キナウシ     七丁四十二間
      従キナウシ     黒岩サキ     四丁廿二間
      従黒岩サキ     シロヒ川     八丁廿九間
      従シロヒ川     テカツ      四丁
      従テカツ      ソイクチ     三丁二十間
      従ソイクチ      立岩       一丁
      従立岩       小瀧       五丁五十間
      従小瀧       シシハナ     六十七間
      従シシハナ     フルヘ      十三丁二十間
      従フルベ      大瀧へ      十丁四十七間
      従大瀧        バンノサワ    二丁二十間
      従バンノサワ    ビヤウブ岩    二丁五十間
      従屛風岩      ウノトリ岩    六丁五十間
      従ウノトリ岩     ヒタカトマリ   十丁四十間
      従ヒカタトマリ   矢シリハマ    一丁十六間
      従矢尻ハマ     矢尻川      十一丁四十間
      従ヤジリ川     スノ川      四丁二十間
      従スノ川       シユマトマリ   三丁四十間
      従シユマトリ    宮ノ下      十七丁十八間
      従宮ノ下      トドホッケ    八丁
 扨、土人の話しに、椴法華は近来の字にて、唐渡法華と云よし、其ゆへは日持上人此処より入唐し給ひしと。其故に此処に古跡有と云り。またホッケと云魚は此村より取れ初て他国になき魚也。日持上人の加持を得て此地にて此魚ども成仏せしと云伝ふ。
扨、是より登山するに
   村中に華表有。是より九折を上る事しばし
嶮坂角を攀て
   上るに、此処村の上凡三、四丁も上りて又華表有也。越て九折を上ること
しばしにして
燋石畳々として岩山をなし、其間に生ずる躑躅纔壱尺斗にして一面に生ひ、小草皆本邦に有ものなれども岩上に生ずるものなれば、さまことにしておもしろきかたちをなせり。又コケといふ木の実有。其葉檍の木に類し高纔六、七寸、皆岩石を伝ふて生へり。只是のみにして余木なし。七月に至りて食ふによろし。

   中宮華表より五丁斗といへり。是より北平山にして南は上宮なり。硫黄のかたまりし岩道の上行こと半丁斗にして
西院川原
   世に云ごとし。多く石を積上たり。此処より上宮に又道有。
   細き鳥居を越て上るなり。
恵山上宮
   石の小祠あり。此処に上るや西の方汐首岬を越て箱館山・木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南大畑、下風呂サキ、一々手に取ごとく見へたり。其傍に硫黄もえ出四時ともにたゆる暇なく、黒煙天をさして上る。実に其さま筆状しやすきにあらず。二、三丁下りて
追分
   此処に左右に道あり。左り浜へ下れば九折を下る事廿五丁にしてイソヤヘ到る。
右の方にしばし平野を行
   此方より右の方凡二十丁もひろかるべし。向の方に明礬を製す。しばし行て
温泉川
   又温泉元ともいへり。笹小屋二、三軒をかけて此処にて止宿して湯治す。其湯極熱にして水八分、湯二分位也。此川末酸川に至り海に到る。
功能
   疥癬 疝気 腰下 疹瘼(ママ) 切疵 其外腫物一切によろし。
   然るに、当夏焼後未だ小屋もなく、湯治人も壱人も居ざりし故、余も一度入たく覚へけれどもせんなく下りける。