その署名者の冒頭に「見阿弥陀仏 沙弥道暁 沙弥行也 平高直」と、四人の人物が名を連ねる。これらの人物については、従来素生がはっきりとしないとされてきたので後述する。
その四人に続く「安倍季盛(すえもり)」は、時代からみて『十三湊新城記』(史料一一四三・写真114)に、福島城(市浦村)築城者と伝えられた安倍(安藤)貞季であると考えられている。得宗北条貞時の一字をもらい、のちに貞季と改名したのである。続く「沙弥道性(しゅみどうしょう)」は、鎌倉幕府滅亡後もなお鎌倉方についた人物の交名(きょうみょう)である「津軽降人交名注申状」(史料六五二)に、「曽我太郎兵衛入道々性」とみえる人物と同一人と考えられる。また一人おいて「平經廣(つねひろ)」なる人物がみえるが、平姓であるのでこれも津軽曽我氏であろう。
写真114 十三湊新城記
とするとその間に入る「沙弥行心(ぎょうしん)」も、配列からみて津軽曽我氏であろうか。もっとも配列は絶対的なものではなく、必ずしもすべてが苗字順に並んでいるわけではないので、これだけでは確証に欠ける。
この津軽曽我氏は、仇討ちで有名な曽我兄弟の義父曽我太郎祐信(すけのぶ)の一族であるが、当初においては関東に所領を有していた形跡がなく、曽我氏庶流として早くから得宗被官となり、東北地方を中心に活動するようになったものらしい。執権義時のころには平賀郡岩楯村・平賀郷の地頭代職を得ていたことが古文書で知られているが、津軽曽我氏については次項で詳述する。
「沙弥行心」に続く「丹治宗員(たじむねかず)」は、鹿角郡柴内村に地頭職を持つ御家人丹治党安保(あぼ)氏(武蔵国賀美(かみ)郡安保(あぼ)郷出身)の行員(ゆきかず)の近親であるとされる。安保氏もまた、曽我氏のように御家人でもあり御内人でもあった。
「源光氏(みつうじ)」は、弘前市中別所の正応元年(一二八八)銘の板碑(資料編1六一一頁・写真115)にもその名がみえる人物。陸奥にも源姓氏族は多いが、光氏の苗字は不明。近接する宮舘の大型板碑のなかに「源泰氏(やすうじ)」の名があり、泰氏は「高椙(たかすぎ)郷主」というから、これらの源氏は現在の弘前市高杉あたりにいた豪族と考えられている。光氏もあるいは高椙氏などを名乗っていた可能性が高いとされる。
写真115 正応の板碑(重要美術品)
源光氏の名がある。
続く「僧證嚴(しょうごん)」「沙弥道法(どうほう)」についてはまったく不明だが、それに続く「藤原宗直(むねなお)」「藤原宗氏(むねうじ)」は、平賀郡乳井郷にあった藤原姓小川(河)(こがわ)氏(もと平姓か)と考えられる。小川氏は、鎌倉初期より乳井郷の福王寺・極楽寺別当職を受け継いだ一族で、小川宗直は弘安十年(一二八七)、北条貞時より乳井郷の極楽寺阿弥陀堂別当職を安堵されている。
また福王寺は、承暦二年(一〇七八)草創と伝えられる熊野系の修験寺で、ここからは昭和三十二年(一九五七)、宋銭を中心に五千枚を越える銭貨が出土しており(写真116)、往時の繁栄ぶりが偲ばれる。
写真116 乳井埋納銭
第三区最後の「沙弥覺性(かくしょう)」については不明であるが、第四区冒頭の「勧進 都寺僧 良秀(りょうしゅう)」も小川氏の法名との類似から、小川氏一族出身で福王寺所縁の僧である可能性がある。
さて、これら津軽の有力武士たちのなかで、最も勢力のあったと推測される津軽安藤氏「安倍季盛」の前に名を連ねる、「見阿弥陀仏」「沙弥道暁(どうぎょう)」「沙弥行也(ぎょうや)」「平高直(たかなお)」という人物は、何者なのであろうか。
近年の研究では、「沙弥道暁」は、下総国の御家人山川氏の一族で、山川五郎光義の出家名であることが指摘されている。この道曉なる人物は、常陸国行方郡の長勝寺の元徳二年銘の鏡の施主でもある。このこと自体はすでに戦前に指摘されていたが、現在ではそのことをもとに、さらにふみこんだ推測がなされている。
既述したように、津軽方面の地頭代職は、下野小山氏やそこから分かれた白河結城氏など、関東御家人やその有力な一族に与えられているものが多い。この山川氏一族の本拠は関東または南奥であるから、津軽方面にはさらに代官を派遣していたのであろうが、そうした代官たちのなかには土着していったものもあろう。
こうしたことを前提に考えるとき、地元の大豪族津軽安藤氏の前に名が置かれているこれら四人は、関東に本拠を置く御家人の一族・庶子でありながらも、このころ津軽地域の郷・村の地頭代職を獲得していた人物たちで、それゆえに、在地出身の御内人安藤氏よりも前に名を連ねていると解することができるようである。
「平高直」は平姓であることから、従来「平經廣」「沙弥道性」らと同じく津軽曽我氏かとも推測されてきたが、やはり安藤氏よりも前に名を連ねていることから、右のように考えるのが妥当なところであろう。