大浦氏の城下町建設の流れ

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大浦氏津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて、大浦為信(ためのぶ)の祖父に当たる久慈南部氏信濃守光信(みつのぶ)を明応元年(一四九二)に現在の鰺ヶ沢種里(たねさと)町に種里城を築いて入部させたことにはじまる。
 その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城に入部させた。同年、種里城の光信には大浦城を築城させ鼻和郡の本拠地とさせた。光信は大浦城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている。そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。
 為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城の北側に位置する堀越(ほりこし)に本拠地を移し、堀越城堀越城下町の建設に着手する。そしてここは近世の弘前城と弘前城下町が建設されていく慶長十六年(一六一一)まで使われていた。
 このように、大浦氏は中世の戦国時代から近世初頭にかけて城の普請と城下町の建設を実に四回も行っていることになる。大浦氏近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの城と城下町建設を進めていったのか。あるいは家臣団編成をはじめ商・工業者の集住に対する取り組み、さらには宗教施設や寺院などの配置を明らかにしていくことにより、津軽氏の権力構造の解明につながっていくのではないかと思われる。
 これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の城と城下町をみていくことにする。