堀越城・石川城を中心とした城館群

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堀越城石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏津軽を押さえるための拠点として築城したとされる石川城跡について考えることが必要である。
 石川城跡が築かれた場所は奥大道の街道沿いであり、なおかつ鼻和郡の中心部に入る入口に築かれているということに重要な意味がある。大浦氏はその石川城津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である。このように当市域の南側に位置する石川地区は南部氏にとっても、また大浦氏にとっても非常に重要な場所であった。なお、大浦氏堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが十分に予想される。
 石川城周辺の東側に位置する城館では乳井茶臼館跡乳井城跡乳井古館跡、北側に位置するものでは平賀町の大光寺新城跡や沖館城跡・高畑城跡・新館城跡などの城館跡が点在し、南側には森山館跡をはじめとし、大鰐町の蔵館(くらだて)跡や元長峰(もとながみね)城跡・三ツ目内(みつめない)館跡・唐牛(かろうじ)城跡、碇ヶ関村の永野(ながの)館跡などが街道筋に沿った形で連なっている。堀越城石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た時には城館跡が密集している状況がうかがえる(図74)。これらの個々の城館跡はいくつかの城館群ネットワークによって構成されていることが考えられ、城館の築城構造や規模などからみていくつかの特徴が浮かびあがってくる。

図74 石川城を中心とした城館群配置状況

 まず第一は「奥大道」に沿った状態で城館群が構築されていったということである。そのことはすなわち交通の要衡である街道を重視した城館配置であるといえる。
 石川城を南下し大鰐町に入ると、まずはじめに蔵館跡がある。蔵館跡のある台地を「古館」や「館コ」あるいは「宇佐美(うさみ)館」と呼ぶ人もいるが、蔵館跡は平川の河岸段丘で二つの曲輪からできている。東曲輪は現在の蔵館小学校の建てられているところで、西曲輪はりんご畑と住宅が建てられている。この東側後方には神岡(かみおか)山があり、そこには高伯(こうはく)寺跡がある。また西側一キロメートルの地点には宿川原(しゅくがわら)へ通じる狭くて急な登り道がある。
 元長峰館跡は、元長峰村入口の「三王(さんのう)崎」から、村の東南端までの丘陵一体が館跡である(図75)。長峰村は鎌倉時代から南北朝時代にかけては、大平賀郷の中心の村でもあった。元長峰館は長峰城とも呼ばれ、「古館」「小館」「篠館」という三つの曲輪から構成されている(図76)。このなかで中心となる曲輪は古館で、八幡宮が最初に勧請されたともいわれている。そしてこの古館跡の東側に小館跡と篠館跡が造られている。これらの館跡はすべて同時期に存在していたか不明であるが、小館跡と篠館跡の間にある堀や斜面の処理の仕方を見る限りにおいては、戦国期に造られた可能性は高い。古館跡は非常に古風な造りであるが、時期を断定することはできなかった。

図75 元長峰城跡の概念図


図76 元長峰の曽我館(曽我光高の居城)

 元長峰館跡は自然地形が多く、斜面の処理も良く行われていないことから館跡とするには難しいものがある。しかし最近では村人も戦争が始まった時に逃げ込むための自分たちの城(「村の城」)を持っていたと考えられ、このような性格を持った館跡であった可能性はある。
 三ツ目内館跡は「戸館」「中館」「古館」という三つの曲輪から構成され、それぞれの曲輪を区切るように空堀が横位に設けられている(図77)。その上流の山手には三ツ目内城の「高館」があるといわれている。高館の立地について「由緒書抜」には「御中小性 小友左蔵」の中に「三ツ目内村比内領御境目見継役被仰付」と、境目という地点にあることからこの館跡も重要な場所に造られていたことがわかる。

図77 三ッ目内城跡の見取図

 唐牛城跡については、地図などから見て街道を押さえる関所のような性格を担って造られたであろうことが想像され、現地踏査や昭和六十年(一九八五)の発掘調査では中世の遺物や竪穴土壙(どこう)などが確認されているが、城館跡であるという根拠となる堀跡などは確認することはできなかった。また唐牛小学校舎が建てられている場所も館跡であるといわれているが、そこでも遺構と思われるものを確認することができなかった。しかし何らかの施設が存在していた可能性は高い。
 砂沢平(すなざわたい)館跡は、唐牛方面から流れる平川が長峰で大きく曲がる急な台地の杉林付近から、東北縦貫自動車道の阿闍羅(あじゃら)パーキングエリア付近一帯に位置する。この砂沢平館跡は東西六〇〇メートル、南北六〇〇メートルの規模とされる。昭和五十四年(一九七九)には東北縦貫自動車道建設工事に伴う発掘調査が行われ、その結果、曲輪は三つ、堀跡は一七本、溝跡二条、犬走りが二ヵ所確認されている。
 このように石川城跡周辺、とくに石川城跡の南側に造られた城館群の大きな特徴としては、交通の要衝地、あるいは領国の境目といった重要な地に城館跡を配置しているといえ、一六世紀の戦国期においては一連の城館ネットワークを持って存在していたであろうことが想像される。