三 中世寺社の存在形態

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 津軽地域における寺社の存在形態を最も基本的に規定したのは、何といっても、「蝦夷管領」安藤氏の宗教政策であろう。
 津軽山王坊なる天台宗的な宗教道場を営んだと伝えられる安倍氏の末裔の安藤氏は、『日蓮遺文』に
(一)文永五年の比、東には俘囚をこり、西には蒙古よりせめつかひ(責使)つきぬ。日蓮案云、仏法不信なり。定て調伏をこなわれんずらん、調伏は又真言宗にてぞあらんずらん、(史料五八二)

(二)真言師だにも調伏するならば、弥よ此国軍にまくべし(中略)ゑぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也、いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ、(史料五八三)

とみるように、政教一如を標榜する領主であった。その延長として、前にみた「熊野先達職」のこともとらえることができることは、いうまでもない。
 また、永享八年(一四三六)、「奥州十三湊日之本将軍」としての安藤康季が行った若狭(わかさ)羽賀寺の再建事業(「本浄山羽賀寺縁起」史料七八〇)や、長禄四年(一四六〇)の安東師季による鹿角(かづの)郡総領守大日堂への、若狭国鋳造の鐘の奉納(「大日堂由来記」史料八三二・写真226)などは安藤氏の宗教的領主としての面目躍如たる一場面であろう。

写真226 『大日堂由来記』

 この羽賀寺の再建と大日堂への梵鐘奉納は、同時に、安藤氏の版図の広大さを物語るものであることは、多言を要しない。
 一方、貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀が次のように平賀郡福王寺極楽寺へ敷地を寄進し、両寺別当職をその子信濃公長秀に譲っている(史料五五五・写真227)。

写真227 僧栄秀寄進状

奉寄進
 津軽平賀郡乳井郷内福王寺極楽寺敷地事
 四至
  限東大仏岡横大道    限南八幡林長根道湯沢堺
  限西宇那子林二藤五桓根 限北志々呂木堺
右、限永代所寄進実也、当寺別当信濃公長秀沙汰寺領内、可令殺生禁断奉行諸事、殊御祈禱可致丁寧、仍堺内住人等敢不可違失之状如件、
  貞応二年十二月六日
                  僧栄秀(花押)

 これより先、福王寺極楽寺の両別当職を得ていた栄秀は、貞応二年にこの両職を子の長秀に譲り、その地内を殺生禁断、祈禱の場とし、それには住人も違失のないように戒めている。
 この僧栄秀はこの祈禱の戒めについて、「僧栄秀譲状」(史料五五六)では、こうも述べている。
(前略)為院王両寺之間、種ゝ御祈禱无懈怠可令勤行、為別賞職寺領之間之僧房 在家一同云公云私、倶御祈禱忠節可致、仍住人等宜承用不可違背矣、(下略)

 このように、殺生禁断の地とされた中世の堂社は、「別当職」の形態をとり個人的な所有に属しながらも、地内住人全体の祈禱の場となっていた。
 父栄秀から福王寺極楽寺の両別当職を譲り受けた僧栄秀は、嘉禎二年(一二三六)、北条泰時より平賀郡乳井郷の毘沙門堂の別当職にも補任されている(史料五六〇)。また、延応二年(一二四〇)の「北条泰時書下状」によれば、同郷内の阿弥陀堂別当職も兼ねていたことが判明する(史料五六八・写真228)。

写真228 北条泰時書下状

 このことは、逆からいえば、平賀郡乳井郷には、福王寺極楽寺のほかに毘沙門堂さらには阿弥陀堂も存在していたことを示している。乳井郷における僧栄秀と長秀の別当職をめぐる世襲には、ひとつの郷内における中世堂社の存在の在り方を伺い知ることができる。
 僧栄秀に始まる乳井郷内のこうした堂社の宗教施設は、長秀の後、毘沙鶴と女子鶴(史料五六八)、幸秀(史料五九一)、宗直(史料五九二)千田左衛門次郎入道そして権大僧都頼基(史料六六〇)さらには僧季源(史料六九六)へと譲渡継承されていった。
 平賀郡乳井郷とともに、今ひとつ同郡岩楯(いわだて)郷の中世堂社にも注目してみると、それは仁治二年(一二四一)、曽我広忠の婦人岩楯尼が亡夫の墓堂を経営していたことに始まる(史料五六九)。
 こうして中世堂社の経営を始めた岩楯郷には、建武二年(一三三五)、曽我光貞による熊野堂の再興が現実化する。光貞は坂上田村麻呂の造立と伝える熊野堂を再興し、「大般若会」と転読を退転なく行い、祈禱の忠節を務めていた。それを物語るのが、次の「曽我光貞申状」(史料六五九)で引用してみる。
     任此状可致沙汰之状如件、
  ((北畠顕家)花押)         建武二年正月廿七日
津軽平賀郡岩楯郷給主曾我太郎光貞謹言上
 欲早申賜国宣被成御願弥抽祈禱精誠岩楯郷内熊野堂
右、当社者、田村将軍造起之処也、雖然燈油料田等令不作河成悉以隠没、而可令御祈禱退転之間、光貞去年奉為朝敵退治、今上無為国宰安寧、奉寄進拝領之地参町、於当社令付別当供僧等、毎年不闕之大般若会并毎日転読大般若、于今無退転、而抽御祈禱之忠節者、然則可為御願之由、賜御注進達上聞、被成下国宣御寄進者、別当供僧等弥欲致御祈禱之忠勤、恐々言上如件、

 岩楯郷にも、前の乳井郷と同じく、建武二年のころいくつかの中世堂社が経営されていたことが、次の史料で判明する(史料六六九・写真229)。

写真229 曽我貞光知行分神社仏寺注文案

津軽平賀郡岩楯村地頭曾我太郎貞光知行分所々神社仏寺注文事
   岩楯村分
 一所  熊野堂 古所 申子細 此者別賜御寄進 国宣畢、
 一宇  放光寺  武蔵前司入道殿時 建立也、御下文元弘三年十月三日夜令焼失了、
   大平賀郷内
 一宇  地蔵堂   古所 同令焼失了、
     法師脇郷内
 一宇  毘沙門堂  古所 令賜御恩賞、仮之間 御下文不存知候
 右、注文之状如件、
     建武二年八月七日    平貞光

 このように、岩楯郷には熊野堂をはじめ放光寺地蔵堂毘沙門堂などの宗教施設が曽我光貞の一族はもちろんのこと、その領内の住人の平安祈願を受けて営まれていたのである。
 中世堂社が日々の生活のなかで、どのように営まれていたかを知る上で、次の史料はとても有益である。前述の僧長秀以来連綿と継承されてきた平賀郡乳井郷の福王寺に関するもので、康永四年(一三四五)、乳井寺の別当の僧季源が福王寺に田在家を寄進した「季源寄進状」(史料六九六)のなかに散見できる。
□(奉)寄進福王□(寺)四大天王田在家事
  合六段半者 参段半柳田、参段柴崎南方、
右、件田在家者、任亡父之遺言、限於永代奉寄進四大天王処也、随於二坊分者、可被付供僧二人也、経会時者、児一人、誦衆一人充可被出也、三日誦勤四季之大般若経等可被勤行也、若至于季源子々孫々末、此於御寄進成悩異儀申於出来者、身之欲不可持候也、仍為後日永代寄進之状如件、

   康永四年九月 日     乳井寺日行別当信乃房季源(花押)

 これによれば、季源は福王寺に対して、日常の供養として、二坊分として供僧二人を当てることと、定期の経会(法会)のときには、児一人、誦泉一人を出し、周忌のときであろうか、三日間に及ぶ「三日誦勤」や四季の「大般若」法会も勤行するよう求めている。
 これは、専門僧侶が同朋に要求した仏事内容であり、その意味でかなり特殊ではあるが、それでも当時の仏事供養がいかに、手厚いものかが読みとれる。