図103.虫除札
この樋口善兵衛は、七月二十日から二十五日にかけて、領内の稲見分を行い、報告書をまとめた。廻郷報告書によると、今年は例年よりも稲本が薄く、長さも短く、その上脇穂も不ぞろいであったという。出穂についても、三分の二ほどみえるところもあるものの、まったく穂がみえないところもあったという(資料近世1No.八五六)。また、この報告書では、七月の五日ころの東風・水霜のせいもあってか、稲は赤葉となり穂もいまだ黒いものの、十八・九日ころから天気もよくなり、段々と出穂してゆくようであり、今月中には穂がそろうであろうとし、さらに、畑作についても、例年ほどではないにしても、楽観的な見通しを立てている(資料近世1No.八五六)。
当時、津軽領内ではこうした見方が支配的であったのであろうか、六月末ころには「鰺ヶ沢米十万俵余御払相成候」(「平山日記」)と、鰺ヶ沢から一〇万俵もの米(前年度米)が移出される。そのため、六月十二日には一俵一七匁八分であった鰺ヶ沢の米価が、七月はじめには二一匁、七月九日には二三匁にまで高騰した(資料近世1No.八五五)。冷害による凶作が予測されたにもかかわらず、しかも、米価が高騰する端境期に米を売り払ってしまった藩の判断が、領内の米払底をもたらし、八月末には餓死者を出すような飢饉状態を招くことになったという(菊池勇夫『近世の飢饉』一九九七年 吉川弘文館刊)。こうした大量の米の移出は、「是ニ而万民力を落申候」(「平山日記」)と、一般民衆の意識とはおよそかけ離れたものであったといえよう。津軽領内で、凶作が本格的に意識されるようになるのは、八月七日、武田源左衛門(本締役〈出納総括責任者〉兼大目付)が弘前を立ち、田畑の作毛を見分し、十二日に弘前へ帰り、翌十三日に「大凶作」の様子を江戸へ報告した(同前)ころのことであったようである。