近世中期の三人の藩主

349 ~ 350 / 765ページ
宝永七年(一七一〇)十月十八日、津軽信政弘前城中で死去し、同年十二月十九日、嫡子信重(のぶしげ)が家督相続を許された。信重は享保九年(一七二四)信寿(のぶひさ)と改名している(以下、信寿に記述を統一)。信寿の藩主時代の政治については、享保十一年に百姓の次・三男の分家を禁じたり、その翌年には百姓の年間休日を定め、さらに備荒貯米の奨励など、農政面においてみるべきものがあったとの評価がある一方で、信寿時代の業績と呼べるものの多くは先代信政の政治路線の踏襲であり、寵臣佐藤著恒(さとうあきつね)を重用し、奢侈(しゃし)に走って藩財政を窮乏に陥れたという評価もある(山上笙介『続つがるの夜け』中 改訂新版 一九七三年 陸奥新報社刊)。
 享保十六年(一七三一)に隠居した祖父信寿の跡を継いだ信著(のぶあき)(一七一九~一七四四)の代における藩政では、飢饉洪水などで荒廃した領内の立て直しを図ったり、寛保三年(一七四三)には、弘前横町木戸際の制札の内に訴訟箱が設置される(『伝類』)など、民政面において新たな動きがみられる。信著の跡を継いで藩主となった信寧(のぶやす)(一七三九~一七八四)の代の初頭、いわゆる「宝暦改革」が始まるまでには、藩財政は極度の悪化を示し始めていた。

図109.津軽信著画像