「町支配并びに諸職人と知行取の由緒書」(資料近世1No.一一五一、故八木橋武實氏旧蔵)によると、弘前の町支配の役人は、町年寄・町年寄手(町名主・月行事(がつぎょうじ))・知行取(町方の有力町人)籠(ろう)奉行・籠守・時の鐘撞(かねつ)きで構成されていた(長谷川成一「本州北端における近世城下町の成立」北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』一九九三年 三省堂刊)。
表29によると、為信の代に召し抱えられた者の先祖は、近江・山城といった近畿地方の出身者が多く、彼らは、町方支配の技術を、都市的な機能の発達していた地域である上方で身につけていた者であったと思われる。また、万治三年(一六六〇)に召し抱えられたという本城出身の者は細矢といい、この細矢家は、代々出羽国本城(荘)城下でも、町年寄に相当する町名主を勤めていた家柄である。弘前の城下には、町方支配の任を円滑にこなしうる力量を持った人々が町年寄・町名主などを勤めたと思われる。日本海沿岸地域の各城下町で町支配を担当した人々は、このような支配の技術を持つ集団として、お互いに連絡・つながりがあったと思われる。