これによると、騒動が具体的に何を要求していたかがわかる。史料によってやや異同はみられるものの、(一)来年三月まで公定価格での米の販売、(二)廻米の停止と来秋までの藩による蔵米の備蓄、(三)米留番所の廃止と惣町による米穀流通の管理、違反者の摘発、(四)町年寄を二人制とし、元職の佐藤伝蔵の復帰、(五)役人の賄料の町方負担の停止、(六)名主会所の廃止による町方の出費の軽減、(七)目明かしの廃止による町方の出費の軽減、(八)家屋敷売買税(一〇分の一)の廃止の各条項である。藩の領内米穀流通統制および廻米強化策の廃止、飯米確保、町方の出費の軽減、町年寄・名主会所を巡る町制改革が機軸となっている。
図128.騒動の様子を伝える津軽徧覧日記の記事
しかしながら、藩は再騒動を恐れて一時的に廻米船を滞留させたものの、結局七月末には出帆を強行した。騒動にかかわらず、廻米は藩の基本政策として堅持されたのである。これが天明の飢饉の被害を一層大きくしていったのは後にみるとおりだが、(三)にみられる米留番所の廃止は認められ、青森町人は藩の発行・許可する手形の俵量に規制されることなく、町全体の管理のもと飯米確保ができることになり、米穀流通統制の一端を崩す成果を得た。また(四)(六)も拒否されたものの、ほかの町方の負担を軽くする要求は認められるなど、一定の譲歩を引き出したのである。さらに、町奉行は町人を慰撫(いぶ)するために極貧の者に三五〇俵の補助米を差し出し、また青森町一九六〇軒の家々に対し、一軒当たり一斗ずつの扶持米も手当てされた。
さらに、公定価格での販売も確約されたが、無制限なものでなく、一人一日当たり四合(米三合、大豆一合)で、町奉行が配布する手形と引き替えに販売するという形式であった。販売に当たっては米改めを受けた豪商たちの保有米五二六九俵のうち、五〇四俵が騒動直後に補助米・夫食(ふじき)米となり、一五〇〇俵が小売米として売り出され、相場との値段の差額は、彼ら豪商の負担とされたのである。このように、青森騒動は藩の政策そのものを変えるに至らなかったものの、一定の成果を挙げることはできた。
もっとも、その後の凶作の被害の悪化とともに、米価も公定価格による販売の割り当ては八月二十一日には一人当たり三合(米二合・大豆一合)に減らされ、十月に入ると大豆が五勺となり、米の価格も一匁当たり六合と、公定価格の二倍強となった。