賃銭・物価の統制

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さて、戸籍調査人別改めに当たって、年々増加してきている日雇いの扱いが問題となった。もちろん無家業・日雇家業・借宅などの小者については、この二、三ヵ月のうちに手寄(てより)のある在方に引っ越しをし、早速農業に従事すること(資料近世2No.六六)として、人返しの対象にはなっていたものの、人不足の状況下では、完全に排除することはできない場合もあった。そこで、日雇頭を置いてその管理に当たらせ、自由な稼ぎができないようにし、「順勤帳」を作成して必要に応じて計画的に日雇いを配置することにした。たとえば御家中の仕事の次は町方の仕事を与え、遠方への人夫稼ぎは継続させないように配置計画を組んでいる。日雇頭は弘前では日雇い一〇〇人に一人を置き、在方では庄屋がその任を果たすよう命じられた(同前No.六七)。人不足を効率的に解消しようとしたわけである。
 このような中で、日雇い配置の問題は、必然的にその賃銭の設定を導くこととなった。日雇頭による仕事先の配分は、雇用者側と日雇いとの相対での取り決めをやめさせることであり、そこにはあらかじめ賃銭の設定がなくてはならなかった。そこで、人不足に乗じて騰していた賃銭を安く設定するとともに、日雇いの年齢や仕事内容等に応じて賃銭の細分化を図った。賄(まかな)い付きで盛壮の者は一文目、老人・小者等は七分、町方の夜番は賄い無しで五分という具合であった(資料近世2No.六七)。
 この賃銭の下方修正は、人不足という大きな枠内で行われたものであり、日雇いのみに適用されたものではなかった。在方では、仮子給銭の騰で百姓潰れの状況が起こっていたのであり、家中においては仲間・小者(こもの)・召使の類の給銭が騰し、人不足に加え、賃銭面でも雇用が困難になっていた。藩はこの仮子や家中奉公人についても給銭を下方修正して定めている(同前No.四七~四九)。なお、仮子については前述したようにその統制を仮子頭から手代庄屋に切り替え、相対で仮子を抱えたり、出奔と偽って手元に隠し置いたりしている状況に厳しく対処している(同前No.八六)。
 賃銭の騰とともに諸人の生活を脅かしたのは諸物価の騰であった。米価の下落にもかかわらず他の諸品の騰は直接、生活に影響を与えるものであった。米価については全国流通の中で価格が決められてくることから、藩独自での価格引き下げは難しいが、領内を流通する日用品等については、領内商人に対して強制的に価格の引き下げを命じている。寛政元年(一七八九)の目付触れによれば、他国産の品は一割、国産の品は二割引き下げ、さらに「諸色直段帳」を渡して、その値段のとおりの商いを強制している(同前No.二六)。
 賃銭と物価統制は天末年から寛政期にかけての状況に対応したものであるが、それは物価の騰が、基本的には百姓成り立ちや家中成り立ち、さらには人夫や武家奉公人の雇用、これらを阻害するものとの認識から打ち出されたものである。藩士土着策との強い関連性がうかがわれよう。