寛政八年(一七九六)の「弘前町中諸職・諸家業軒数調牒」(同前No.一九五)や幕末期の元治元年(一八六四)八月の「弘前町中人別戸数諸工諸家業総括牒」(同前No.一九六)には、無役家業の中に日雇取(ひようとり)が五四四軒(ただし、五六一人とあり)、日雇が七四九軒とみえている。前者では、職種の総軒数を数えると二七四五軒となり、全体の一九・八パーセントを占める。借家総数は一九〇三軒であるので二八・六パーセントを占めることになり、ほぼ三人に一人が日雇暮らしをしていたことになる。後者では当時の町方の総軒数が四九二七軒であるから、全体の一五・二パーセントを占める。借家総数一五九七軒からみると、四六・九パーセントを占め、借家に住む町人の半分近くが日雇生活をしていた可能性が高いのである。時期的な変化をみると、時代が下がるにつれ日雇暮らしの町人が増えているといえよう。
この日雇の実態はどうであったのだろうか。最近発見された安政六年(一八五九)の「桶屋町支配戸数人別調帳」(進藤忠三郎氏蔵 以下「桶屋町人別帳」と略記)や、幕末期の文久三年(一八六三)八月の「和徳町西側四丁目より坂之上九丁目迄(まで)戸数人別改帳」(資料近世1No.一九七 以下「和徳町人別帳」と略記)が参考になる。「桶屋町人別帳」には同町だけでなく、隣接する建詰(たてづめ)町(現市内桶屋町の一部)・鍛冶町・新鍛冶町の一部も一緒に記載されているが、これによれば、この町域には家持町人である本家(ほんけ)が五八軒、借家が四五軒、合わせて一〇三軒があった。この内最も多いのは日雇の二六軒であり、桶屋の二四軒をしのいでいる。内訳は本家が一一軒、借家が一五軒で借家の方が多いが、本家の二〇パーセント近くが日雇で生計を立てているのは他と比べて多いといえよう。本家は本来家業を持っていたはずであるが、何らかの理由で家業をやめたものといえる。日雇先は不明であるが、そのうち二軒には奉公に出ている旨の記載がある。一方借家の方は、三分の一が日雇で生計を立てており、三軒には奉公に出ている旨、一軒には新田在に稼ぎに出ている旨の記載があるほかは不明である。本家・借家とも、恐らく日雇先は弘前城下であったものと推定される。
「和徳町人別帳」は和徳町全体のデータを記載したものではないが、記載部分によればこの町域には本家が七五軒、借家が四七軒、合わせて一二二軒が居住していた。本家で日雇の者は八軒で多くなく、借家で日雇のものは一四軒である。借家の者の日雇の割合は約三〇パーセントで四分の一を越えていた。本家で日雇の者には日雇先の記載はないが、借家の内一軒には三人の者が松前稼(かせ)ぎに出ている旨の記載がある。他の多くの日雇先は弘前城下であったと推定されるが、「桶屋町人別帳」の場合と同様、具体的にはわからない。
さて、両帳の記載で注目されるのは家業がありながら、家族の中に「奉公に出ている」とか「松前稼ぎに出ている」という記載が散見することである。奉公に出るのは家業を継ぐため修業に出ているものと考えられるが、松前稼ぎは現在の北海道への出稼ぎであり、領外へわざわざ出向いて働いていることが目を引く。藩では領民の松前稼ぎを禁止する布達をたびたび出している。たとえば、「国日記」天明七年(一七八七)十月七日条(資料近世2No.二七)にみえる松前表へ鯡割(にしんわ)りに行くことの差し止めや、同年十月八日条(同前No.二八)にみえる鯡漁に雇われて行くことの差し止めなどが挙げられる。これは、天明大飢饉後の領民の流失減少に歯止めをかけたいというねらいによるものであるが、逆に領民にとっては松前渡海は生活の糧(かて)を得ることができ、出稼地として魅力のある場所であった。幕末期になっても松前へ出稼ぎに行く状況がなくならないのは、そのことを証明していよう。
なお、元治元年(一八六四)八月の「弘前町中人別戸数諸工諸家業総括牒」(同前No.一九六)によれば、弘前城下の町方の内、男で他領に出稼ぎに行っている者は六四四人、女は四九二人の計一一三六人で、町方人口の七・三パーセントを占めていた。
具体的にみてみると、「桶屋町人別帳」の場合は本家で松前稼ぎに出かけている者はいないが、借家では五人の者が松前稼ぎに行っている。この内、三人の家業は桶屋の通い弟子であり、桶屋町を代表する家業である桶屋があまり振るわない状況を反映しているものであろうか。ちなみに、延宝六年(一六七八)の「弘前町方屋敷割」(旧八木橋文庫蔵)では、「ヲケヤ町」には桶屋が二四軒あったことが知られているが、幕末期の「桶屋町人別帳」でも桶屋の数に変化がなく二四軒であった。これは仲間組織の問題とも関係するのでなんともいえないが、同じ町内に住む通いの弟子に仕事がないようでは、桶屋家業が当時振るわない状況であったと考えざるをえない。ほかにも、桶屋の通い弟子でいったん松前に出稼ぎに行ったが、当時は秋田領へ奉公に行っている者も一人いる。
一方、「和徳町人別帳」では本家の家族で松前稼ぎに出かけている者は全部で七人おり、うち女性が三人である。女性の内一人は洗濯師として松前へ渡っている。借家では家族の者で松前稼ぎに出かけている者は一二人おり、うち本人自身が三人、弟一家三人挙げてというのが一家族(弟・その妻・倅)みえる。女性も二人おり、いずれも洗濯師として松前に出稼ぎに行っている。逆に、この年の春に一家五人が松前稼ぎから戻って来た場合もあった。「桶屋町人別帳」・「和徳町人別帳」の記載で共通しているのは、松前稼ぎに行ったまま帰国していないものが大部分であり、人別帳に名前を記載されている人間は、籍はあるが当時その町に居住していたとは限らないということである。