「国日記」嘉永二年(一八四九)十二月二十三日条によれば、和徳(わとく)村(現市内和徳町・東和徳町・野田・表町(おもてまち)・大町(おおまち)・駅前町・駅前・城東中央・稲田(いなだ))の長之の妻せんは、新里(にさと)村(現市内新里)惣左衛門の子の常と密通した後に、夫を捨てて隣りの秋田領へ常と一緒に逃げることにした。せんは子供の万之を連れては秋田領で奉公もできかねるので、捨てようかと考えていると常に相談したところ、常は捨てたらよろしかろうという。そこで彼女は富田(とみた)方面へ捨てようとしたが、万之が後を追いかけてくるので、万之の着物へ石を入れて原ヶ平村(現市内原ヶ平・富士見台・中野・城南・山崎・館野(たての))の溜池へ放り込んで溺死させた。そのため三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場(おおば)(鰺ヶ沢・深浦・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)・飯詰(いいづめ)・板屋野木〈板柳〉・木造(きづくり)・浅虫・黒石・金木(かなぎ)・五所川原(ごしょがわら)・油川(あぶらかわ)・浪岡・藤崎(ふじさき))御構(おかまえ)を申し渡すよう申し出ている。
「国日記」の翌三年十月二十六日条には、せんに対して、嘉永二年六月に行った法要の恩赦により、一〇里四方追放・大場御構を申し渡しているのがみえる。したがって、彼女には三〇〇日の牢居が執行されていることが知られよう。
「文化律」の項目「御関所忍通候者御仕置」の中の規定では、他領へ逃亡した者は鞭刑一八鞭と所払(ところばらい)とあり、項目「密通御仕置之事」の中の規定には、密通した妻や男は死罪とある。彼女にはこの規定が該当するのであるが、法令による恩赦で刑罰が軽くなった。一方、常に対しても、せんと同様に一〇里四方追放・大場御構を申し渡している(「国日記」嘉永二年十二月二十三日条)。